超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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自己鍛錬としてブログを使う事など。


最近、ブログ書いても書いてる内容がスカスカなんだよね。これは何だろうと自分でも思いながら書いている。文章に対して思いがこもらない。


自分が書いてることが客観的にみてどの意味合いを持っているかが分かっていないと思う。人気のあるブロガーで読者からのレスポンスが望める人ならば、読んだ人の反応で理解することができるけど、僕の様な零細ブログの管理人は他の人のブログを色々と読んでみて自分のブログと比較して共感する所を元に推し量るしかない。


でもまぁ……、正直な所は他人が読んでみてどう感じるかは2の次、3の次だったりする。ここで書いていることも別に何かしらの他人のレスポンスを求めて書いているものではなくて、自分自身のために残している文章という意味合いが強い。自分がどう考えているのかをスケッチして出力する思考実験である。究極的には自分が文章を書いていて楽しければOKというスタンスで書いている。最近の状態は自分で書いていても楽しくない。というところで悩んでいるのです。


そんなに書くのがつまらないならありのままを受け入れて、書くのを辞めるというのも選択肢ですが、ありのままの自分を受け入れるって考えは、楽にはなるけど成長はしないと思う。


ある程度の囚われは必要。アナと雪の女王でエリザのLet it goが感動を呼ぶのは、子供の頃からの罪の意識への囚われ続けたエリザの開放された心の叫びだからである。僕らの様な現代ニッポンの一般人はそう簡単に囚われから開放されても無為さにスポイルされるだけです。
特に、裸を見られると興奮するとか、電車の中で女性に欲情するというような人がレリゴーしたりすると問題が発生する。そんな性癖は抑えとかないと官憲に捕縛されるだけなのです。


囚われはその人にとっての課題でもあるから、解決しようと向き合うことも重要です。むしろ縛られているからこそ出来る表現というのもあると思うのです。コンプレックスを抱えている人が、それを文章にして表現しようとするとき凄まじい葛藤や限りなく美しい世界観が作品の中に現れることがある。


例えば太宰治は、「人間失格」や「桜桃」などの人間の暗部を抉りだす作品も書くが「走れメロス」の様な人間賛歌の作品も書く。彼は理想と現実の壁で揺れ動いて、その心の揺れを作品に反映させていたのではないか? どうしようもなく薄汚い欲望を持ちながらも、ときおり美しい珠玉の精神を見せつけてくれる人間というものを描こうとしていたのではないだろうか。人間的には問題ある人だったようですが、そんな人だからこそ本質を貫く作品を書けたのではないかと思う。


人間、生きていれば苦しいのは普通のことだと思っている。苦しいながらももがいて進んで、新しい光景が見えてくるのが楽しいのではないか? 自分の中のコアな部分を削ったり足したりしながら完成形を目指す。自分を磨く鍛錬。毎日、ブログで文章を書くのはそんな行為だと思っている。


少しぐらい辛くても続けることは必要ですね。

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