超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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ヤンキーとの思い出を書こう。

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「嫌われる勇気」がドラマ化されたじゃないですかー。これは最初、CMで見た時に爆笑した。しかも内容見てみると書籍とは全く関係ない刑事ドラマ。いや、どうなのこれ? 流石にこれを原作「嫌われる勇気」とは言えないと思う。内容は「福家警部補の挨拶」みたいな変人女刑事が大活躍する刑事ドラマ。アドラー心理学全然関係ないよ。そういえば「福家警部補の挨拶」といえば、メインテーマの音楽が超クール。原作は面白かったけどドラマはクソだった。

 


【高音質】福家警部補の挨拶 エンディングテーマ(主題歌)

 

さてさて、今日は過去の記事のリライト企画。昔書いたヤンキーとのお話を書き直してみよう。

 

 

www.ituki-yu2.net

 

オタクとヤンキーは仲良くなりやすいってことを書いた。なんというかね、この二種族は交わらない感じがするけど、学校ではリア充という共通敵がいるから意外なほど話が会うのです。今時、全国的にヤンキーが生き残っているかは分からないけど、沖縄には未だにリーゼントで改造バイクのV字ハンドルのバイクに大股でまたがった可愛らしい坊や達が居る。彼らはツッパッてるだけでメンタリティは非モテやヲタとそう変わりないぞ。まぁヤンキーはモテるんだけどね。

 

高校時代の僕の友達はヤンキーばかりだったということを書いた。その頃の僕は中二病を完全に拗らせたかんじで、図書館にこもってヴィクトル・ユーゴーやらランボーばっか読んでいる文学少年だった。完全にひねくれていてね、同級生が話しかけてきても「人間強度が下がる」とか阿良々木暦みたいな事言ってた。

 

中二病拗らせた小説を文集などに載せていて、今思い出すと意味もなく町内一周ランニングしたくなるぐらい拗らせ行為をしていた。なんか小難しい事を書いていて、あんな感性の人間とは付き合いたくない。周りの人々もそのあたりは察していたのだろう。

 

クラス内でも全く一人で弁当を取るなどの行為を普通にしていたのだが、友達は一応居た。ダブって20近いのに未だにヤンキーしている同級生である。こいつもクラス内で孤立していたので、仕方ないのでつるんでいた。図書館裏でこいつがタバコふかしている隣で僕は哲学書を読んでいたり、体育祭や文化祭を一緒にボイコットして学校からエスケープしたりしていた。

 

こいつが特殊なヤンキーだったのかもしれないな。ダブって20近かったのでヤンキー仲間が出来なかったのかもしれない。普通のヤンキーならば一緒になって暴れる仲間と遊ぶんだろうが、こいつはヤンキーの中でもはぐれ者だったのだろう。普通に人と絡みたいとか女と遊びたいって感情は持っていた様だが、どうにも自分の年下の人間とは上手く付き合えなかったらしい。普通のヤンキーとこいつを同一視するのは、些か人間観察がおろそかかもしれない。

 

それにしてもその頃の僕の捻くれ具合は不味かった。図書館にこもって哲学書を読んでいるやつが格好いいと思っていたのよ。意味もなくハイデガーの「存在と時間」やスピノザの「エチカ」を読んでいたのである。全く理解できていないので「ソフィーの世界」や「文学部唯野教授」でカンニングして哲学キーワードを会話に交えて話をする高校生だった。同級生たちはその痛々しさを理解していたのだろう。距離を置かれていたよ。うぁあ、今思い出すと死にたい・・・。

 

とにかく、オタクとヤンキーは気が合うのである。リア充憎しの共有感情があるからね、クラスでみんな仲良く一致団結で文化祭の準備などをしていると、死ねばいいのにと言いながら僕らは逃げる。体育の授業で面倒くさいマラソンならば、さっさと金網を超えて逃げてしまう。逃げてばかりの青春だった。

 

あんなキラキラした青春は全く理解できないし、理解したくもない。中二病のオタクはひたすら陰にこもってグジュグジュの自意識を直視しながら、思考で言葉だけを弄ぶ。ヤンキーはそれを仲間と暴力で表現しようとするが、仲間も作れないものは一人で捻くれるしかない。青春はみんながみんな美しい風景だったとは限らない。どんな世間に背を向けた光景であってもそれはちゃんとした思い出だ。

 

青春とは、仲間がいて、甘酸っぱい恋愛をして、それなりに成長するというリア充視点の物語だけを有難がる世の中には中指を突き立てたくなるね。非リア充にも物語がある。だけどリアルにその話をすると嫌な顔されるのはどういうことだろうか? あんま、非リアを舐めんなよと言いたくなるね。

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