超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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僕が絵とか文章で表現しようとしている心象風景は意味不明だと思う。

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那覇バスターミナル近辺でイルミネーションが綺麗だから写真撮ってみた。



深々と冬が深まっていく。独り身の人間にとっては寂しい季節だが、こういう気持ちも嫌いじゃない。孤独は感情の輪郭をはっきりとさせる。街を行き交う見知らぬ人々を見ていると、どこに行くのだろうというとりとめのない想像力が膨らむ。世の中には一生話すことのない人間たちがそれぞれの人生を送っているのである。夜景に浮かぶマンションの小さな灯の一つ一つが、人々の営みを象徴的に示しているのだ。想像することも出来ない膨大な量の想いや時間が、ふと見た風景の中に揺蕩っている。


寒さってのはそういう感傷的な気分を浮き彫りにするね。僕は内向的な性格だから孤独には慣れているんだけど、名も無き群衆に混じっていると自分のどうしようもない小ささをビビットに認識してしまう。必死になって保とうとしているアイデンティティなんてものは、匿名の群れに混じるとまったく意味を成さない。


こういう感情は、酸のように人格を侵していく。毎日必死になって文章を綴っているのも、この感情を紛らわせる為だったりする。ありとあらゆる手段でもって自分を表現しようとしているんだけど、上を見るとやる気をなくすし、下を見るとキリがない。僕の文章は稚拙だ。胸の奥でたぎっている感情を百万語を尽くしても表現できない。毎日綴る習慣は心の内圧を下げる制御弁の役割しかはたしていない。


誰かに認めてもらえれば満足するかとも思うんだけど、ネット上の不特定多数の人々にそれを求めている訳じゃない。多くの人に褒め称えられたいって感情は薄い。本当の内心のコアな部分を共有できる人は居ないものかと探しているんだろうな。


プライドが邪魔だ。純粋な感情を表現することが出来ない。本当の事を書こうとしているのに、多弁になって余計なことを書いている。表現しようとしているのはもっとシンプルで一言で表せる言葉なはず。余計な形容詞ばかりが増えていく。書けば書くほど真相から離れていく。


一体、何を求めているのかは言語化が難しいんだよな。言葉にしようとすると堂々巡りで距離が余計に離れる。だけど、抽象的なイメージだけで表現しようとすると誰も理解できない。いや、心象風景を無理やり言葉として抽出すると「寒空の深夜に公園の水銀灯の下で一人で佇んでいる様子」だよ? この程度だったら読者に想起させる描写ってのは、少なくともプロ作家志望なら無理矢理でも出来なきゃいかんのだがなぁ。


こういう心象風景を表現するために、下手なのに絵を描いたり物語を作ったりしているんだよね。深層にあるのは無機質で静謐で膨大な幼少期の記憶の束だったりする。書いている文章全体に流れているコアな部分を無理やり言葉にすると「団地のベランダから見た駐車場で立っている父親の姿」だもんなぁ。流石にここまで抽象化された物を表現するには無理筋過ぎて諦めてるんだけどさ。


あー、色々と書こうと思ったけど時間がない。僕的にはこの感覚は共感覚と似た種類のものなんじゃないかなーと思ってるんだけどさ、風景とエピソードが結びつく事が沢山有るのよ。僕はそれを絵や物語の中に含めてたりする。


共感覚ってのは、音を聞くと色が見えるとかそういう特殊な感覚。wikiを示しておこう。


共感覚 - Wikipedia


これを掘り下げていくと普遍的無意識にたどり着くのかとか思ったんだけど、とあるクオリアから思いつくことがまったく私的で普遍的なものとは関係ないイメージなのよ。多分、無意識の深度としても非常に浅い個人的な領域の部分のイメージなんだろうなと思うんだよね。


ちょろっと前に色々と構造主義的な手法で民話や神話を物語に含めているって書いたけど、こういう私的なイメージが大量に混ざりすぎて普遍性の純度としては低いものとして留まっていると思う。神話や民話クラスになってくると長い時間を掛けて色んな人の口伝で伝わったものなので余計なものが一切加わっていない。それが「物語としての純度が高い」か?ってのが僕の一つの研究テーマなんだけどさ。まぁ、ラノベワナビからすると外連味がなくて読んでも面白いものではないよね。

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