「桜は儚いからこそ美しい」人の一生はもっと美しい | ANGIE(アンジー)
桜は日本人の心を現すような花である。一瞬だけ苛烈に咲いて、散っていく桜に生き様を例えるのは昔の日本人から有った。
願わくば花の下にて春死なむ。その望月の如月の頃。
西行法師はこの歌を詠んで、実際に陰暦の2月16日に入滅したという。桜と死を重ねて考えるのは平安時代からあったのでしょうね。
ただ、なんというか自分としては死を美化する日本人の心の在り方があまり好きではない。武家社会の時代でも、なにかあれば切腹をして恥を雪ごうとする。現代社会であっても、過労死というのは過酷な死に様である。それであっても、現場責任者に責任が問われないというのは相当に異常である。(例えばワ○ミとかね)
日本の文学では、あまりに信念の為に死ぬことを美化し過ぎなんじゃないかと思う。忠臣蔵での最後の切腹。太宰治の入水自殺。三島由紀夫の割腹自殺。信念を持つならば死んでもいい、と作品を書く作者本人が信じてるのではないかと思う。日本の文化自体が死を美しいものだと考えているのでは?と僕は邪推してしまうのである。
散りゆく桜に終焉するなにかを感じて、人生の儚さを重ねるのは良い。ただ、美しい破滅、カタストロフィを美化するのが日本人の心持ちにあるのではないかと思う。
大団円ではいけないのだろうか? 何かを積み重ねて熟成していくのも僕は美しいものだと思う。しかし、日本人は美しい破滅を優れたものだと見なす風潮があるんじゃないかと思う。
自分も物書きであろうとする人間だけど、死を美化する様な作品は絶対に書かないでおこうと思っている。ずるずると日常を生きる人間であっても、その在り方は十分に価値あるものだと思うのである。日常の中にでも美しさは存在する。
カタストロフィのなにが良いんだろう?物語で表現する作者はその作品が読み手にどんな考えを与えるかは考えておかないといけないだろう。ハッピーエンドで凄い作品はかけると思う。
死と対義しないと生を実感できないのは、生活の中での掘り下げが足りない。散る桜に死を重ねるのは紋切型になっているのではないのか?と問いたい。
SAVING 10,000 - Winning a War on Suicide in Japan - 自殺者1万人を救う戦い - Japanese Documentary