浦添市美術館で、切り絵アート展ってのが2017年3月11日から4月16日までやってるのさ。観てきたんだけど凄かったー。写真とったけど、ブログで使えそうな画像がないのな。展示物は撮影禁止だし、浦添市美術館の外観の写真は別に珍しいものではない。絵葉書でも撮影しときゃ良かったな。
倪瑞良(にいい みずよし)さんって切り絵作家の作品がヤバかった。切り絵ってあそこまで細かく作業するのかっていう驚きと、絵としてのモチーフ自体も大胆で攻めている感じなのね。ミュシャとかあの辺りの宗教絵画な感じ。でもキリスト教ではないなギリシャ神話とかをモチーフとしているんだろうか?本当に一枚の紙から切り出された絵なのかって思いで何時間でも観ていられる。
使えそうな画像が無かったので他人のブログを貼っておく。他には蒼山日菜(あおやま ひな)さんって人の作品も繊細だったな。
あと、今調べてびっくりしたのが作品を出展していた筑紫ゆうなさんって筑紫哲也の娘なんだって。筑紫ゆうなさんは沖縄出身と書いてあったのだけど、沖縄で筑紫って名字は珍しいなと思って調べたら、筑紫哲也が沖縄にいた時期の娘だとさ。筑紫ゆうなさんはペーパークラフト作家として活動しているんだって。ふーん、20へぇぐらい。
うーん、イベントに参加したのに使えそうな写真がないのがつくづく悔やまれるな。沖縄在住の人は観に行くだけの価値はありますぜ。ちなみに今週末の16日までだから急いだほうがよろしいです。
さて、今日の本題。最近、ネットで自分の考えを不特定多数に晒すのは恥ずかしいことなのではないか、という考えが浮かぶようになったのね。ま、僕は以前も何度も書いたけど、僕がブログを書く理由は露悪的な事を書いて恥部を露出する事が快感だからというのがモチベーションなので、その事で羞恥心とか罪悪感を感じるってことはないんだけどね。だけどさ、文章を書く以上、ある程度センシティブな感性を働かせないと共感を得られる内容を書くことはできない。僕は変態だけどそこまで鈍感って訳でもない。ちょっと掘り下げて書いてやろうではないか。
「沈黙は金、雄弁は銀」ってのは誰が言い始めた事なんだろうな?ことわざの1つとして受け取っているが、これは日本の一般的なコミュニケーションに対する主流意見だと思うね。アメリカナイズされてディベートしたり意見を主張しないと駄目などの文化も入ってきた日本ではあるが、自分の考えをペラペラ喋るやつは信用されないっていうのは暗黙の了解である。自分の本当の本心は直接伝えるのではなく、暗喩的に空気で示して察してもらうのが美しいやり方ってのが民族のDNAに刻まれたコミュニケーションのやり方である。
ネットとかでもさ、あんまり赤裸々に自分の本心を晒すのははしたないと思ってるのは僕だけなんだろうか?私生活をなんでもかんでもブログに載せて晒している様に見える僕だが、本心を書く時はネタやら煽りやらを書いて変に饒舌になってしまい、素直に本心を書くということができない。いやはや、本当に思ったことだけを素直に書くというのは難しいのよ。さらに、それを他人でも理解できる文章として書ける技術があれば作家に成れるほどの才能である。まぁここで語ろうとしているのはそこまで高度な技術の話ではないのだが。
これは僕が文章を書くことで遊びすぎた弊害なのかは知らないが、剥き出しの自意識を書いた文章は辟易して直したくなる。他人の目に晒す文章ならば、ある程度美しく飾らないと嫌悪感が募る。これは羞恥心とかではなくて、なんか変な職業意識みたいな感じ。僕はシャレで自称・文筆業を名乗っているが、作家の文章へのこだわりってのは僕みたいな同人作家程度のアマチュアでも本職のプロでも変わりない。本質的にはただの素人と変わりないブロガーでも、本気で文章に向き合い始めるとこういう現象が発生し始める。こういう本心を書くことの難しさってのに気が付き始めたら、文章を書く事の本質の入り口に立てたという事だろう。プロになるとか言い始めるワナビはこの感覚ぐらいは掴めてないと恥ずかしい。たまにいるんだ、やたら着飾った文章を書くんだけどそれが表現しようとする対象が恐ろしく稚拙な作家が。人間としての成熟度が足りてないとでも言うべきか。「太陽の季節」の頃の石原慎太郎がまさにそれ。あれは内容的には作者自身を投影した主人公が俺TUEEE!している二次創作小説とそんなに変わりないぞ。
読んでも自意識に辟易する文章を書く作者がいるという時点で、僕の論理は破綻している気がするがひとまずまとめに入ろう。
なんというか、本心を本当に伝わる文章で書ける人ってのは一部の才能溢れた作家を除いて難しいことって気がするのさ。そこまでの文章の練度を高めるってのは一生ものの修業が必要。だから一般人がブログで書く文章でそこまでの技術を求めるのは無理筋。だけど、本心を伝えるために文章を書き続けるという態度は絶対必要であろう。文章的には稚拙であってもそれに立ち向かう人は勇気ある人だと思う。たとえ文章の表面上は現れなくても、その本心を理解できる人は色んな文章を読み慣れた読者なんかにいたりするんだ。