超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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物分かりの良い「ルールの粒度が細かい」世界。

物分かりの良い「ルールの粒度が細かい」世界。


ふむん。ブログを書こうと思うものの、特に書きたいネタが思いつかず。どうも気をつけないと説教を始めるのがおっさんの悪い癖だ。毎日ブログで偉そうに説教をかましてるけど、僕でもこういう自分自身をちょっと恥ずかしいと思う事ぐらいはある。何かしら謙虚に、自慢話でもない穏健な方向性のお話を一つばかし書いときたいところである。


上の方にあるはてなブログ運営のお題を消化しとくか。


今週のお題「わたしは○○ナー」


また、お手軽に文章を書き散らすにはわかりにくいお題が出てきたもんだ。「〇〇ナー」というのは、「ビギナー」とか「ランナー」とか、自分の属性について自称してる称号なんぞに述べよとのことであるらしい。


別に英語である必要はないんだよな? 「〇〇ナー」とか言われても僕は「ウインナー」とか「ビルドランナー」ぐらいしか思いつかんのである。このお題の言わんとするところは、何かしら自分のアイデンティティについて述べろということであろう。肩書きとか二つ名とかカッコいい称号というのは二次的なものであって、男は背中で語るもんである。ペラペラのなろう系小説にあるような、実績も努力も伴ってないのに突如強くてニューゲームみたいなもんは、生きてみても空虚でつまらんもんだと思うけどね。


閑話休題。自分のアイデンティティについて色々と考えてみるのだが、僕はなんかマイノリティな方な属性であるためか、特殊なアイデンティティというのが色々とあるよね。


プログラマであるし、小説を書くし、イラストも描くし、ブログを毎日更新することに命燃やしてる。またあんま嬉しくない方のアイデンティティとしては統合失調症を患ってる当事者でもある。


なんか、大学生の頃ぐらいに自分が何者か分からなくて「自分探し」をするような若者って僕が大学生ぐらいの時はいっぱいいた。最近、この「自分探し」というキーワードをあんまり聞かないようになってきた気がする。令和の若者というのは自分探ししないんだろうか? なんとなくイメージ先行で想像してみると、今時の若もんは自分探しをして人生の意味を求めるまでもなく、世の中には自分に付加できる色々な細かな属性が用意されており、その中から自分の気に入った属性をパッチワークしてみて納得できるような自分の姿をデジタルで描けるのかななどと思っている。


僕らの頃の社会の姿ってのはさ、大人というのはかくあるべきみたいな理想の人間像みたいなもんがあって、そこに合わせようと努力したりとか反発したりとかして色んな所にぶつかりながら角が取れてくるもんであった。現代の世の中というのは、LGBTQであるとかダイバーシティへの理解であるとか、社会の方から多様性を理解するように歩み寄ってくる優しい社会になりつつあるのかなと思う。


今時の世の中の方では、普通の人でも何かしら普通とは違うマイノリティを抱えているというのが物語の主題として扱われることも多いであるし、昔と比べると倫理的な規範が緩くなってるのかな?と思ったが、それは違うか。どうもタバコだとかイジメだとかでもそうであるけど、やってはいけない事が社会で明文化されることが増えたかなと思う。昔の方が「〇〇すべし」みたいな明文化されたルールは緩かったと思うけど、そこでは空気を読んで行動することが求められるのが多かった。現代の世の中というのはルールが細かくなったのだと思う。世の中の全ての事象に対して細々とルールを定めて、例外というのを無くそうとしているように思える。


今の世の中というのは、「自由になった」というよりは「ルールの粒度が細かくなった」のだと思う。自分の属性がマイノリティの方で、社会と軋轢が生じることというのは、昔も今も変わらずに存在していると思う。だが、世の中にマイノリティの居場所を細かく設定してやることで、個人が社会と衝突する頻度が減ったのだと思う。なんだかんだ言いつつも、自分の居場所というのは家庭や学校や仕事の他にも、ネットコミュニティの中などにあったりする。途轍もないマイノリティな属性であれど、SNSを検索して世界中を調べてみると自分の仲間が存在する。


しかし、ま、世の中に居場所が増えてマイノリティでも暮らしやすくなったというのは良いことかもしれないけど、自分のアイデンティティについて掘り下げられる深度というのは浅くなったんじゃないか?と僕は推測するね。主流なきサブの横並びでどんな人にも居場所ができたのは良いけど、カウンターカルチャー的なものの精神的な深さは浅くなってるんじゃないかと思う。社会とぶつからずとも自分というものを確立できる世の中であるがゆえに、変革すべき世界というのも無くなっちゃった。だから、世の中の人たちってのは物分かりが良くて、みんな保守的になりつつあるんじゃないかな?と思う。


ここんところ、氷河期世代というのはどういう現象だったのか?と自分の頭の中で考えを巡らしてることが多い。そんな中で今回考えたようなことも思いついたりするのだけど、参考文献もない独自研究である。特に発表できるような場所もないもんだから毎日のブログで適当に書き散らす。

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