超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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ブログを書くのが難しくなってきたので我が身を省みてみる。

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いやー、スランプ。ほんとにスランプでブログ書いても楽しくない。結構、書けない時期がしつこく続いている気がするぞ?


ここ最近、冒頭でネタがないネタがないと連呼しているじゃないですかー? 大概において僕は適当にキーボードを叩いていればまぁ文章は紡げるタイプなんですよ。こういう適当に書く言葉についてもなんとなく心から離れている感じというか、心の則に従ってないと感じることが多々あるのです。


このブログに関してはまぁひとまず続けることをモットーにしているので、ひたすら思いつく限りをキーボードに叩きつけるという書き方でやってきているのだけどそれにしたって文章のノリが悪い。ちょっと書いて続きを何を書くのか悩みながら筆が止まるというそういうパターンに陥っている。


僕のブログの書き方はチャンドラー方式というのは何度か書いてきている。朝5時にエディターを立ち上げて、その時の思いつくままに2000字をひたすら書きなぐるという方式である。レイモンド・チャンドラーという作家の仕事術として、この様に決まった時間に決まった場所で書けなくても座り続けるという方法を取っていたらしいので僕も真似してこういう方法を取っている。


これはチャンドラー方式と言うよりはモーニングページと呼ばれるものに近いのかもしれないな。


kinarino.jp


書けないときは書けないことについてひたすら書き続けるというのをモーニングページでは推奨している。心の中を洗いざらい吐き出して、デトックスしてしまうという方法論がモーニングページである。方法論としてはこれもまぁ悪くない。


あけみさんが「ブロゴナニー」なる論を提唱しているのだが、これも例えとしては良いかもしれないな。心の中を全部、文章で書き出してスッキリしちゃうというブログ論である。ブログ+オ○ニーで「ブロゴナニー」らしいっすよw あけみさんは僕のことを「ゆき兄さん」などと呼んで慕ってくれるけど、彼女もポエムブロガーとしての才能は高いのである。新たな造語を作って壁をぶち抜いてしまう突破力は僕には真似できないことだ。


www.akemi-12mg.net


僕は良くも悪くも論理的な組み立てを重視する傾向がある。前提条件における次に繋がる文章はなにか?という事を考えながら、前で受けた言葉を後ろで広げるなり深めるなりして論を深めようとする。こういうのがそんなによろしくないのかもしれない。


短い散文的なエントリーを書いているのに味わい深い内容になっている人を見かけることがあるのだ。これは内容が論理的というよりは詩的であるが故に実現できていることであると思われる。感覚的な言葉を僕は軽視しすぎているのではないか?


なんというか、言葉のロジックに拘るあまり頭でっかちになって、自然に紡がれる言葉の流れをせき止めてはいないか?ということだ。もっと情念のままに生み出される言葉をそのままエディターに叩きつけてはどうだろうと思うのだ。


僕はそういう自分の論理で自縄自縛になるというのはよくあることだ。ブログの書き方にしても2000字縛りとか朝5時に書くなどのルールを決めているのだが、別に個人でやっていることなんだからどこでどう書こうが自由なはずである。必ずしもその時にすべての文章を書く必要は無いはずだ。


しかし、このブログのエントリーはモーニングページ的なやり方で行っていくのが良いかもしれないね。頭のリソースを開けるために思考をデトックスするために文章を吐き出すのである。このルールの元でひたすら文章を綴り続けるというのは意味があることなのかもしれない。未だにそのことに迷いがあるのだ僕は。果たして、自分が書いている文章が、世間の位置づけ的にはどういう部類の文章なのか?と内心で不安がっているのよ。


僕がブログで書いている文章を一つ規定している言葉がある。「枠にはまらない自意識は見るに堪えない」という言葉だ。自意識というのは一定の枠組に収まってこそ他人の評価を受ける事ができる。例えばピカソのような前衛芸術にしても、いちどしっかりとしたデッサンや模倣を経たうえであのような崩した抽象画に至るのである。最初から幼児が殴り描いたような落書きに何の価値もない。それだけの精神性の枠組みができて、それを破壊したからこそピカソの絵には意味がある。


守破離」という言葉がある。

まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。

守破離 - Wikipedia


僕は頑なに型を守ってきたのだが、そろそろ破る時期なのかもしれない。今までのパターンを破って新たなスタイルを模索すべきなのかな?『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。』ゆるゆると歩んでまいろう。


僕がやろうとしてるのは兼好法師から続いている忠実な随筆だ。 - 超メモ帳(Web式)@復活
ようやく本当の意味で文章を書く理由がみえてきた。 - 超メモ帳(Web式)@復活
型にはまらない自意識は見るに堪えない。 - 超メモ帳(Web式)@復活

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