超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

文体の器用さが欲しいものだ。

文体の器用さが欲しいものだ。


今日は体調に関してようやく少しは落ち着いてきたような気がしている。といっても、絶好調!という感じでもなく、ただぐるぐる同じ場所を回っていた状態からは多少マシになったかな、というくらいのところだ。


昨夜は少し時間ができたので、習作の小説を一本書いて、noteにアップした。これは特にプロットのある物語というより、心情描写の練習として書いたようなものだ。こういう小さな作品を増やしていくのも、今後に向けて重要だと感じている。


note.com


今は次に書く長編のプロットを練っている最中だけど、何よりもまず「書く」ことを止めないこと。それが一番大事だと改めて思う。小説を書く時って、ブログなんかとは違って、使う脳の部位が少し違う気がする。起こっていることを観察しながら、映像のように描き出す感覚というか。そういう作業だ。


昨日、不来方さん(id:kozukatasanchi) からニュースレターに出していた小説の感想をもらった。筋肉ライターマツモトについての感想で、「説明が足りなかった」と指摘されてハッとした。あれは、デイモンド・チャンドラーのノワール小説の文体を意識して書いたもので、普通の文体とは少し違う。短くて、冷たくて、内面に閉じこもった硬質な語り口。つまり文体芸の側面が強い作品だった。それを伝える術がまだ足りていなかったのだと、今になって気づく。


文体というのは、やっぱり「練習」して身につけるしかない。いろんな小説の語り口を真似して書いてみて、それで自分にフィットするものを探していく。どこかで読んだ話だが、「好きな文体の作品を2、3冊真似して、自分の身体に染み込ませるのが一番だ」と言っていた。確か『小説家になって億を稼ごう』だったかもしれない。



僕の今の書き方は、ほとんど独学だ。だからこそ、描写が薄すぎたり、もう少し主人公の内面に寄った方がいいのかなと思う時もある。でも、あまり内面に入り込みすぎたこってりした文章も、それほど好みじゃない。


カメラワークで言うと、三人称一元で、主人公の少し後ろからカメラがついていって、行動を通して内面が少しずつ浮かび上がってくるような見せ方が多い。その方が自分には合っている。ただ、読者の感情に寄り添うという点では、内面にぐっと寄った文章の方が好まれるのかもしれない。そのあたりは、好みの問題と割り切るしかない。


想像力を働かせて、その場の状況を頭の中で再現して、そこにいるように書く。これが小説を書く上での基本であり、AIにはまだ難しいところだろう。たとえAIが模倣はできても、そこに「心を持って」書くことはできない。


実際、「機械の神と語られしものたち」の骨組みはAIで書いたのだけど、AIを使うことで骨組みを早く作ることはできる。僕自身、1週間もあれば長編の構成をバーッと作れる。でも、提出する原稿にするには、結局は全部自分で手を動かして書き直さないと納得いかない。AIの出力は便利だけど、どこか心がズレているというか、人間が書いたものに比べると、どうしても物語が宿っていないように感じてしまう。


イラストでも同じで、AIイラストは細部は綺麗に描けても、そこに込められた「物語」や「感情」がなければ、どこか安っぽく見える。芸術とは、そういうものなんだと思う。


だからこそ、AIをどう活かすかは作家ごとのバランス感覚にかかっている。便利さと、表現としての深さ。その両方をどう折り合いをつけるのか。僕自身も、まだ試行錯誤の最中だ。

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