超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

夢というのは叶えてみると案外たいしたことがない。

夢というのは叶えてみると案外たいしたことがない。


おはよう。今日もブログを書いていく。


昨日はジムで上半身のトレーニングをしてきた。チェストプレスをやって、ラットプルダウンをやって、まあいつもの感じのメニューだ。ダイエットの方もそこそこ順調で、体重はだいたい4キロくらい落ちている。数字だけ見れば、生活はわりとちゃんと前に進んでいると言っていいと思う。ただ、最近どうも「納得感」が薄い。


筋トレもしているし、絵の練習もしている。やるべきことは一応やっている。それなのに、なんというか「頑張った感」があまりない。できた、という実感が弱い。努力していないわけではないのに、達成している感じが薄い。そんな妙な感覚がずっとある。これが何なのか、ちょっと考えてみた。


結局のところ、人生全体の「大きな目的」を見失いやすいからなんじゃないかと思う。僕の場合の理想って、仕事をやりつつ、晴耕雨読みたいな生活をして、創作を楽しむことだったりする。つまり、働きながら、絵を描いたり、小説を書いたり、そういう創作を続けていく生活だ。


で、よく考えると、それ自体は今もそこそこ出来ている。実際、iPadを買って絵を描いているし、筋トレもしているし、生活自体はそこまで悪くない。それでも納得感が薄い。


ここで思うのは、人間の「満足」って意外と当てにならないんじゃないかということだ。頭の中では、成功とか夢の実現ってもっとキラキラしたものを想像している。でも実際にやってみると、案外「こんなもんか」という感じだったりする。


例えば、老後の夢として世界一周クルーズとかあるとする。でも実際、定年退職してそれに乗ったとして、本当にそこまで感動するかというと、ちょっと怪しい気がする。たぶん楽しいとは思う。でも人生が変わるほどの感動かと言われると、そこまでじゃない気がする。


若い頃は「作業興奮」みたいなものがあった。何かに没頭して、それだけで楽しい、という感覚だ。でも年を取ってくると、それがだいぶ減ってくる。やることはやるんだけど、淡々とこなす感じになる。成果は出せるけど、興奮はあまりしない。ドーパミン不足、みたいな話なのかもしれない。


でも、人間の人生の意味が脳内物質に左右されるというのも、なかなかシビアな話だと思う。
やることはやっている。努力もしている。でも「やった感じ」が薄い。それだけで人生の価値が揺らぐとしたら、ちょっと理不尽な感じがする。むしろ最近思うのは、夢というのは叶えてみると案外たいしたことがない、ということだ。


例えば今の僕の目標は、絵をもっと練習して、自分が納得できる絵を描くこと。でも多分、どこまで行っても僕は納得しないと思う。もう少し上手くなりたい、もう少し良くしたい、そう思い続ける気がする。でも、もしかするとそれでいいのかもしれない。


終わらない目標を持っていること自体が、人生をそこそこ充実させるのかもしれない。「葬送のフリーレン」に出てくるエルフたちも、長い生涯の中で自堕落にならないように、研究したり目標を持ったりして生きている。あれって、案外リアルな話なのかもしれないと思った。


人間の「納得」なんて、たぶん人生で一回か二回あればいい方だ。それも一瞬で終わる。長続きするものじゃない。どれだけ成功しても、どれだけ社会的に達成しても、「こんなもんか」と思う瞬間はきっと来る。だったら、最初からそれを前提に生きた方がいいのかもしれない。


最近の僕の生活を見れば、筋トレは順調だし、体調も悪くない。iPadで絵の勉強も始めた。客観的に見れば、そこまで悪い状況じゃない。それでも僕はたぶん、この先また「まだ足りない」と言い出して、小説を書いたり何か新しいことを始めたりすると思う。


だけど同時に、妥協も大事なんじゃないかと思う。頭の中にいる熱血社員みたいな自分が、「これじゃまだまだ足りない」と言い続けると、たぶん人生はどんどん苦しくなる。だからある程度のところで、「まあこんなもんか」と言えることも必要なんだろう。


ほどほどにやる。ほどほどに満足する。それくらいの温度で生きるのが、案外ちょうどいいのかもしれない。

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