僕は生きることは基本的に苦しいことだと思ってる。
今日は旧盆であり、親戚周りをしてきてこの後夜にも予定がある。一日中走り回ってる状態であり、ようやく一時間程度は余裕がある時間ができたので、コーヒーを淹れてブログを書いてるところである。
親戚周りについては、まぁ、色々と因縁もあるんだけど、やっぱり僕は自分の母親が嫌いである。母親が今までいろんなことを無茶苦茶に荒らしまくったせいで、後の世代の僕が大層迷惑してる。それでいながら恩着せがましく武勇伝を語るタイプの人間というのは自分が一番嫌いなタイプである。
ネットでもリアルでも自分と同世代ぐらいの話を色々と聞いたりするのだけど、やっぱりこういうのはどこでもこんな感じなんだろうなーと思う。親子の関係というのは、人間関係の中でも一番距離が近いような関係であり、しかも相手を選べない。相性が悪いタイプで近親憎悪をたぎらせたまま延々と生活の中で顔を突き合わせていると、お互いに相手を傷つけ合いながらも離れることができずに家庭内暴力などに繋がり、最悪は殺人まで起きてしまうのもありうることである。
ここんところは、僕はある程度いろんな経験をしてみて「こんなもんだ」と悟りを開いた。どう考えてもこの母親と自分の性格というのは合わんのである。嫌いなものを好きになるように頑張り続けることは、無駄な努力でしかない。「顔を突き合わせてるとムカつく」という親であるなら、できるだけ外出したり別々に食事をしたりなど距離を取るようにするしかない。頑張って悪感情を拗らせて喧嘩になるよりはマシである。
どうもいまだに日本の文化というのは、家長父制度の文化が残り続けてるというか、儒教の文化かもしれないけど「親や年長者は敬うもの」という考え方である。その考え方に縛られて苦しくなるぐらいならさっさと捨てることをお勧めする。周りの人や親戚はその態度について色々と言ってくるかもしれないけど、自分が苦しくなってきて助けを求めてもアドバイスはくれるかもしれんけど、実際に親の面倒を見るのは変わってくれんのである。
僕が今書いてる話は割と露悪的で極端な部類の話なので、話半分ぐらいに聞いてほしい。でも、実際、母親の介護とかで親戚とかいろんな人に助けを求めたりもしてみたけど、結局一緒になってやってくれるのは自分の妹ぐらいのもんである。色々と手伝いなどはしてくれるけど、最終的な責任であるとか病院の付き添いみたいなもんは自分がやらされているし、母親が色々と好き勝手やってきたせいで恨みを持っている親戚なんかもいたりする。この歳になってきていろんな人から相手にされてこなくなってるのは、正直本人の責任である。
それでいて僕がちゃんと同居して面倒を見たりするのは、我ながら優柔不断で断りきれないタイプの人間であるよなーと思う。なんだかんだ状況に流され続けて、母親の状況がどんどん悪くなり続けてるのに介護をしたりとか色々と家事をしたりするのは、いろんな事柄で足を引っ張られてきたし、わりかし致命的なこともたくさんあった。
最近の自分の成長ですごいなーと思うことは、こういう嫌なことでも「それがどうした」「こんなもんだ」で割り切れるようになってるのである。今まで思い返してみても、自分の人生ってこんな風なキッツイこととかアンラッキーの連続であったし、どうもそれで不幸を感じる感受性が擦り切れて麻痺してしまってる。
「嫌いな母親を介護し続けないといけない」というようなことに関しても、それは自分の人生では「そういう条件がある」ということで括弧付きで理解できるようになってきた。仮定の話で理想的な生活なんかを想像したところで、どうせその状態でも別の嫌な事柄とかがたくさんあるはずであるし、僕は生きるというのは基本的に「嫌なこと」という理解をしてる。
こういうのは仏教的な理解から分かってきたことなんだけど、人生というのは基本的に切なくて苦しいことである。「一切皆苦」というような言葉で言われたりするけど、どれだけ快適で満たされた生活をしていてもそれはいつか終わる。また、その満たされた生活の中にも不満の種を見つけて自分が世界一不幸と感じるのが人間の精神性である。
究極的に、最後は人間は死ぬ。世界一の富豪であろうがアメリカ大統領だろうがいつかは死ぬ。どれだけ金を積もうが人間は寿命からは逃れられない。その究極的な存在である「死」に臨むときに、今まで人生の中で出会ってきた出来事にどのように向き合ってきたかで満足した死を迎えることができるかというのが決まってくるのではないかと思うんである。
これを考えるときに、僕はハイデガーの「現存在」の概念を思い浮かべる。人間は死を意識することで本来的な自己に目覚める。死は単なる終わりではなく、人生の中で最も確実な事柄である。死の不可避性を認識することで、人間は自分の存在を強く意識して本当の生を生きることができるのである。
僕は母親が嫌いであるという理由だけで、仏教やらハイデガーを引用してこういうことを考えるのである。こういう哲学遊びができるのも、ある程度人生に余裕ができてきてるのだろう。とりあえず、人生で後悔しないためにはなすべきことをなすことだと思う。僕のこの今の感覚が「麻痺」なのか「受容」なのかはいまだに判断がつかない。