
僕は社会の差別についてはこういうアプローチをするかな。
今日は午後イチぐらいでカウンセリングに行く予定だけど、来週の分の食材がないのでコストコで買い出し。
コストコは沖縄に出来た後から、ハードに使い倒している感じ。なかなか盛況であるらしく、日本に出店してるコストコでは一番売り上げが高いという噂も聞いた。
まぁ、それなりにお得に良いものを買うことが出来てるのでまぁまぁ満足度は高い。コストコで一番良いのは、ガソリン代がめちゃくちゃ安くなったことである。近所のガソリンスタンドと比べると5〜6円は安くで給油をすることができるし、助かっている。
ほんとまぁ、最近の物価高はマジで何だろうなという感じである。いっときと比べると、出費が赤字ギリギリまで上がってしまっているし、その割には給料は上がらない。
ニュースなんかでは、大企業の賃上げが大々的に取り上げられてるけど、うちみたいな中小企業には未だそんなものは幻のネッシーのようなUMAだよ。マジで、家計も苦しくて貯金もなかなか貯まらないものだから、「いざ副業!」というように全力全開を出しそうだよ。
ほんと、家計が苦しいというのが最近の僕の大きな悩みのテーマでね。家計簿についてはマネーフォワードで全部管理してるけど、赤字にはならないけどボーナス頼りの苦しい生活が続いている。
ブログを書いたりとか小説を書いたりみたいな、趣味の活動ができるのも、生活が安定してるから何とかなるものである。これが家計がガッタガタで、生活がいつ破綻するのか分からないというような状態だと、ブログどころではないはずである。
生活を守るためには稼がないとなー。それよりは節約かなー、などと色々ともやんもやんとしてるのである。考えるよりは産むが易しではあるけど、実際のところ生活ランクを落とさないと生活が出来ない瀬戸際という所。
こんなん、政治が悪いと他責をすることも出来るけど、そんな簡単に世の中が変わる訳ではない。実際に生活が苦しいのであれば、自分自身も変わらねばならぬし、同時に社会にもアプローチをしなければならない。
日本のこの社会が大嫌いなのはこれなんだけど、障がい者みたいにハンデキャップを持ってようが何だろうが、全部自己責任と個人に責任を押し付けて、表面上で社会が整っていれば何も問題なしと結論つける所である。
実際、今の社会って差別とかない体で展開されてるでしょ? 違うのである。苦しい人が苦しいと声を上げても多数派は取り上げずに隠蔽するんで、マイノリティの声が圧殺されるのである。
で、マジョリティの方々は美しく秩序があって便利で綺麗な社会のために社会的弱者は我慢をしなさいと宣う。君らが弱いのは自己責任だから、みんなのために見ないところに消えなさいと排除をする。
大層クソなことであるなと思う。実際、差別をしてくるような人たちって直接暴言とかでぶん殴ってくる訳じゃないのよ。日本だと、空気を読めとかみんなそう思ってるとか多数派の代弁をしてるような形で、被差別者の自責の念を煽ってくる。
こういうのハンナ・アーレントの「凡庸な悪」となんの差があるんだろうと思う。他人を苦しめても本人たちは自覚もせずに、みんなそう思ってやっていると同調圧力で免罪したり、自己正当化をする。
ま、僕も断罪口調でそういうことを書いてはいるが、僕が差別に対する社会的アプローチで好きなのは、ガンジーやキング牧師の非暴力主義だ。
僕がこうやって毎日ダラダラと日常のどうでも良い話を書いてるのはその一環でね。別にわざわざ社会派な問題提起をせずとも、ブログで日記を毎日書き続けることが社会変革のための小さな積み重ねなのだ。
僕は統合失調症であるという身の上を明かしてブログを書いてるけど、これは意図的である。
僕はブログに関しては3267日毎日書いてきたけど、こりゃまぁ元々は認知機能障害のリハビリのためだ。自分自身のためにブログを書いているのだけど、それの社会的な影響力というのも多少は意識はしている。
僕はわざと恥晒しなことも赤裸々に書いたりするけど、それは僕という生きた人間が障がい者でありつつも普通の生活を送っているということを知ってもらうためである。
別に統合失調症なんて病気を患って、それで閉鎖病棟に入るぐらい行った人間でも、普通に働いて普通に金銭に悩み普通に創作関係で作品を書いたりする。ここで書いてることは世の中の平均値の人間とそう変わらない。
少なくとも、僕は考え方の道筋を内省的に示しながら書いてるので、突飛な結論に至ろうともその思考の過程は分かるはずだ。
最近だと政治で外国人排斥の流れが出てきたりだとか、世界的に全体主義が覆い始めてるけど、そういう差別をする人たちの文章もしっかりと読んで、ちゃんと理解をした上で自分なりにそのことに関する感想とか考えを書いていこうかなと思う。
僕が好きな言葉はスピノザの「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する」だ。世の中が貧しくなろうとも、差別が荒れ狂おうとも、僕は静かに世の中を観測してその日の日記を返す。別に政治的なことを声高に叫ぶ必要はないかなと思う。こうやってブログを毎日書くことが僕の社会に対するアプローチだから。