今ある幸せに気づくことが大事かな。
なんか、色々と義務感でやってしまう。
なんか、生活のなかで「〇〇せねばならぬ」とか「〇〇しないといけない」と自分は考えすぎな気がするよ。自発的に何かをするのではなくて、義務感で動くことが多すぎ。今日はその辺りのことを考えようかと思う。
毎日書いているブログの文章を読んでいても思うんだけど、義務感でいろんなことをやろうとしてしまうのね。常に毎日成長するために努力しなければいけないとこの人は考えているようだ。
昨日書いたエントリーはこちらの文章であるが、苦しそうである。
自分は成長に囚われているのではないか?と思うことが多々にしてある。何かをするのであれば常に向上心を持って成長し続けないといけない。そういう考えの元で、ブログだったりイラストだったりも毎日練習しなければならない。みたいな感じで義務感でやってしまうことが多い。
成長に囚われて生きていて何が楽しいのだろうか? どうもうまく言えないけど、結局の所、人生は楽しむのが一番良くて、他人と比較しての勝ち負けなんてないのだと思うのね。
元々、義務感に囚われた人間ではある。
自分の人生の中での一番の座右の銘は「克己心」である。自分の惰性に打ち勝ち、行動を推し進めて、成果を積み上げていくことこそが幸せになるコツだと思っている。
昔っから、こんな感じで成果はともあれ色んなことで頑張り続けようとしながら生きてきた。でも、その結果がブラック企業で使い潰されて統合失調症で社会からのドロップアウトだったりして、あんまこの戦略はよろしくないのだなと身をもって分かった。
なんかさ、「ゴールのない頑張りなど苦しいだけ」というのは分かっているのだけど、僕はそれでも何かを頑張り続けることをやめることができない。こういう生き方が習い性となっているのだね。
別に自分の能力を超えるほどの無理をしているつもりはないのよ。ブログの毎日更新もそうだったりするけど、自分のできる範囲でリソースを費やして、自分の満足できる程度の成果をみてニヤニヤするというのが殊の外大好きなのよ。このブログも大バズとかはまったくないけど、毎日読みに来てくれる読者がいることに満足しているよ。
今の自分を認める
「克己心」という言葉は、今の自分に満足せず未来の自分に期待することの裏返しでもあるかと思うのだね。自分の考え方もそういう所がある。
なんか、もっと頑張れば未来の自分はもうちょっとマシになっているんじゃないか?と思っていて、今現時点の自分がそんなに好きじゃない。もっと強く、もっと遠くへ、そんな感じで自分を努力で追い込んで限界値を押し上げ続けようとしてしまう。
実のところ、今の自分に満足することが出来てないからその代償行為として努力を「させられて」しまってはいないか?と考えてしまう。こうやって何かを頑張り続けることは、誰かの上に立ちたいだとか他人と比較して相対的に幸せになろうと頑張らさせられてしまってるかもしれない。そう気づくと暗澹としてしまう。
幸せというのは絶対的であり相対的ではない。誰かと比較しての幸せというのは、上には上がいて満足するということがない。自分なりの絶対的な幸せというのを知っているのならば、それは動かすことのできないことだ。
まとめ
どのみち、もう人生も後半戦に入りそうになってるし、このまま努力し続けた所で伸びしろは限られているというのも分かる。なので、頑張り続けたところでたどり着ける限界というのは見えてきているのだね。
頑張った所で青天井の成長というのはありえない。どこかで限界にたどり着いてしまうし、生きていれば衰えていくこともある。これから先の人生ではどんどん出来なくなっていくことが増えていったり諦めないといけない夢だったりが増えていくだろう。そういう中でも失望しないためには、自分は何なのか?と分かっていればよいのではないか?
確固とした自分がなくて、やらされている努力だからこそ苦しいだけなのだ。自分自身でこう有りたいという目標があって、それに向かって走り続けることは、たとえたどり着けなくても充足感があるものではないかと思う。
僕のブログというのはそういう目的があって、塗り壁のように毎日自分というものを積み上げていくことで自分という立脚点をはっきりさせるためにログを積み上げている。書き続ける人というのが自分というアイデンティティを持っている。僕はこうやって毎日書いている記録に自分を託してるというところがあるのだね。
「〇〇しなければならない」だとかそういうのではなく、「自分がやりたいからやっている!」。そう自分のエゴをしっかりと発揮させることが今の自分には求められているのかもしれない。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。