いろんな人たちに対する感謝の念は忘れない。
さて、今日は僕がいうところの「純度100%の休日」の日であった。特に予定がなかったので、北中城のライカムに行ってきて、東京の友達に送るお土産品を買ってきて、そのあと近くにあるEMホテルでサウナに入ってきた。
サウナに入ってると、自分がいかに思考が煮詰まっているのか気がつくことがある。どうも、日頃のストレスというのは無意識下に押し込められて、自分が気がつかないうちにいろんなものに恨みやら怒りやらを溜め込むような思考の動きをしてるらしく、サウナで強制的に瞑想状態に入るとそれらのモヤモヤが止まって楽になる。
最近気をつけてることだけど、休日は意図的に体を休める日というのを作るようにしてる。どうも、僕の行動原理というのはいつも「ベキネバ」であり、自分で気をつけてないと休日もスケジュールを詰め込んで休みが全くない1ヶ月ということがある。趣味とか生活のことでもそうなのだけど、無理して頑張ろうという強迫観念が強くて、わざわざ「この日は休む!」という日を作らないと休めないのである。
こういうのを気がついたりするのは、マインドフルネス瞑想をきちんと習慣化してるおかげかとも思うんだけど、僕は強迫観念持ちの完璧主義者であり、自分で決めたマイルールの通りに動けないとすぐに自己批判を始める。理想が高いのは別に悪くないとは思うんだけど、そのために日常生活の中で満足できることが少ない。また、客観的に見ても割とやれることは多い方だと思うのだが、それでも自己肯定感が低いのは、こういう強迫観念のせいだろう。
最近、これは意識的にして頑張ろうと思ってることがあるんだけど、ものごとの良い側面を注意して見たりとか自分のやれることを積極的に褒めていこうと気をつけている。
僕の性格というのは、たぶん妙にストイックであり、「自分なんかまだまだ」という感じで現状に満足せずに改善しようする癖がある。現状に甘んじるつもりがなく、自分にも満足せずに常に向上心があるような感じなのだけど、それゆえいつも現状に不満を持っており、自分は大したことないやつだと思っている。
なんというか、僕ぐらいからの年齢でそんな感じというのは、ちょっと周りの年下も扱いにくいのではないかと思う。どうも、僕の思考パターンというのは、どんな相手でもひとまず自分よりは何かしらすごいことができるし、自分の考えてることよりもすごいことを知ってると思い込む。
「謙虚」と「卑屈」は違うよね。僕の思考パターンというのは、どっちかというと卑屈寄りであり、「だから自分は大した人物ではないのである」という結論に帰結しがちである。これ、僕がSNSを絶った理由の一つなんだけど、いつも世界トップクラスのすごい人と自分を比較して、自己嫌悪に陥ってノイローゼになりがちであった。
基本的なところで自己肯定感が低すぎなのである。なんか、人生を振り返ってみても碌でもないことで失敗続きであり、そういう失敗をクヨクヨと思い出して悩んで自尊心を落ち込ませることが多すぎである。確かにまぁ、大きな不幸な出来事も頻発はしてはいるが、こういうのは「禍福は糾える縄の如し」とか「諸行無常」というやつであり、幸福はずっとは続かないけど不幸も同様なのである。
僕の人生のことを振り返ってみたときなどは、大病を患ったけど家族・友人や医療関係者などに助けてもらって今も生かされている。それに対して感謝の気持ちはちゃんと持っておいた方がいいんだろうなーと思う。それだけじゃなくて、仕事は嫌だ嫌だといつもブログでも喚いているけど、こうやってそれなりに安定して自立した生活をすることができるのは、ちゃんと今の会社に雇用してもらい働くことができるからである。それも感謝した方がいい。
さらに視点を広げていくと、普段の食事や生活のことをちゃんとやることができるのは、世の中の物流や小売業で働いてる人たちのおかげでもある。また、こうやって治安の良い日本で安心して暮らせているのは、行政機能がちゃんと正常に働いているからであり、その国家の礎を築いた過去の人々にも感謝をするべきだろう。
自分一人のちっちゃな自意識の中で悩みに囚われて「自分は大したことがない」と考えることがどれだけ小さなことか。自分一人の存在というのは自分にとっては大したものじゃないと軽く扱ってるけど、自分を支えてくれている人であるとか、自分に至るまでの人類の歴史まで想像してしまうと、一人の悩みなんかスッゲー矮小化される。
僕の大学時代の恩師の教授が言っていたアドバイスであるけど、「人生に悩んだときは人気のない砂浜に行って、ゴザを敷いてずっと夜空を見上げてる」とのことだった。この先生が言ってたことがなんとなく分かるんだけど、大自然であるとか人類の歴史のような巨大なものと対峙した時に、自分の悩みというのがちっぽけであると気がつかされる。今僕は、こういうことを言葉で語っているけど、そういう大きな存在というのは言語では表現不可であり、実際に体験を通じてしか分からないことだ。
頭だけでごちゃごちゃと悩むのはダメなんだよね。大概、そういうことをしてるといつも自己否定で卑屈になる。自分の経験を通じてしか見つからないクオリアというのは、それが根拠もなく生きる理由につながることがある。そういう出会いに対して心をオープンにしておくことは大事かなと思う。