
下手したら書くことそのものがアートという可能性もある。
さて、今日は病院受診でお休みだった。久々の4連休であるけど、基本的に小説を書くことしかしておらず、何してんだろという感じ。
まー、創作過集中はいかんと言いつつ、また過集中モードに入ってるよね。睡眠時間を削って執筆活動をしてるし、気をつけないとまた潰れるなという感じ。
明日からは仕事なので、とりあえず生活習慣を立て直すことを考える。きちんと23時半までには寝て、週3回のジム通い、一日20分の瞑想をしっかりやろうと思う。どうもね、創作をしてる時はそれらの習慣が吹っ飛びがちであるけど、そこんところをしっかりと融合して持続可能な創作というのが僕の課題なんだよ。
ブログにしてもそうだよね。僕の生活の基盤はブログを書くことである。基本のベースとしてブログを毎日更新してるからちゃんと生活が安定してるアースのような役目をしてるであるし、どれだけ何かのトラブルで生活がボロボロになろうとも、ブログを書いてればまぁ大丈夫という妙な確信のようなものがある。
世の中を観測してると物書きの習慣を持ってる人はわりかし見かけるけど、自分と同類というのはわりかし珍しい存在じゃないかなと思う。どうも、僕は書くことそのものに執着してるという傾向が強いようであり、他人の他者評価があれば嬉しいけど、別に必須じゃない。自分が書きたいことを書き散らすことに特化してるという変な人なのである。
これ、多分才能の部類なんだと思うけど、別に何かに役に立つような才能でもなさそうなのだ。自分の内情を垂れ流すことに特化した、自分語り文章特化の才能であるらしく、書いてる自分は楽しいけど周りに感心されるような文章は書けない。
そこんところ、気をつけて自分なりにお役立ちな文章を書こうとしてもいるんだけど、正直言って書いててあまり楽しくない。すごいわがままなことを言うけど、僕が求めてるのは自分勝手な文章を書いてそれを評価されるのは良いけど、評価されるために自分が頑張るつもりはあんまりないのだ。
うん、わかってる。それはものすごく世の中を舐めたことを言っている。自分の中で煮詰まった自意識をただただ評価してとわがままなことを言ってるのであり、僕でももし他人がそんなことを言ってるのであれば「世の中を舐めるな」と説教する。
なんかさ、エゴを書くんだったら美しきエゴを書きたいと思うんだけど、それってプロの作家でも難しいことだよなと思う。特に市場主義が発達してる現代においては、多数が消費しやすい情報の方が価値があるとされており、そういうアートとか純文学傾向の文章というのは受け入れられない。
自分自身が文章を書いていて楽しければ良いじゃんというガキのような思いつきもするけど、どうも文章を書くということはそういうことじゃないような気もするんだよね。特に僕はブログという媒体で文字を書く習慣を身につけてきたものだから、ネットで不特定多数に読まれることを前提にした文章を考えてしまう。単なる日記としての文章なら、それは書くことが続いてなかったかもしれない。
他人への公開が前提としたネットの文章で、尚且つそこで自分のエゴを表現するということになると、そこには技術が生じてくる。本当の独り言であれば単なるノイズとして電子の海で拡散していくが、そこに自分という存在を残そうと思うのであれば、自分という自我のコアが必要になってくる。
ここんところで僕はブログでそういうことを実現してしまったのでは? などと、えらそーなことを考えてしまうのである。僕は、「お前は何者だ?」と問われた時に、まず思いつくのがこうやってプログを20年続けて、3000日以上毎日更新してる人というのが思いつくのだ。こうやって、毎日ブログをコツコツと書いてること自体が、自分のアイデンティティのコアになっている。
フランクルは人生の目的というのは「人生が問うてくることに応えること」というような表現をしたけど、どうも僕はその感覚というのが分かるような気がするのである。こうやって毎日文章を書いてるということは、間違いなく自分の中にある手応えのようなものに答えてる感覚であるし、そうやって書いてきたアーカイブの連なりの中に自分があるような気がするのである。
一体まぁ、これが他人が真似した時に再現性のあることなのかというのは分からんが、「自分とはなんだろう」と悩んだ時には、ブログの毎日更新でも答えが出ることもあるんだろうなと思う。少なくとも僕はそう信じてる。しかし、別にそれで何か世界が開けて見えるとかそういう訳でもないし、「まぁ人生ってそういうもんだよな」とかそう思った。