超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

軸をぶらさなければクソゲーの人生でも満足感が生まれる。

軸をぶらさなければクソゲーの人生でも満足感が生まれる。


今日は午前中にはジムのトレッドミルでウォーキングをしてきて、それ以外の時間は現在手掛けてる小説の「神とストゼロと女騎士」の設定を見て色々とぐだぐだとしてたら1日が終わった。


まぁ、午後は母親の見舞いに行ってきたので、そこまでダラダラしてばっかりという感じでもないけどな。母親はやっぱ弱って自立度が落ちており、今の状態だと一人でトイレも行けるか微妙なので、しばらくは長期リハビリができる病院でリハビリしてもらおうかなと思う。


僕自身の考えとしては、一緒に暮らせるのであればまぁいいのだが、基本的に昼間は僕は仕事に出ているので、その時に転倒とかすると大事になりかねない。ある程度、自立度が高い状態ではないと共同生活は無理だろうなーという感じ。


ほんとまー、孝行したいときに親はなしとはいうが、うちの母親もいつまで一緒にいられるかは分からんな。まだ会話が成立している今のうちにたくさん話しといた方がいいのだろう。というか、母親も僕もそれなりに若い方だと思うのだが、ちとまぁあまりにも早すぎはしないかとは微妙に思う。


こういうのは仕方ないことではあるとはいえ、ライフイベントの理不尽さというのは、経験してる時は無駄に「人生の意味」とか「人生クソゲー」とかそんなことばかりを考えてしまう。一時期に比べると随分まぁ考えもまとまってきてマシな方ではあるが。


ほんとさ、いちいち詳細を列挙したりとかはしないけど、自分の人生というのはこの手のハードモードの展開多すぎじゃね? と思う。なんの因果か知らんが、今の40代になるまでにいろんな苦渋を舐めさせられているために、わりかし精神的には苦労慣れをしてるところがある。自分が苦労人かどうかは知らんけど、ちょっとやそっとの苦労ではへこたれない程度の精神の強度はあるよなと思う。


どうも、こういうことを考えた時に、仏教の「不動心」という言葉に思いを巡らしてしまう。僕はこの言葉は、青森の恐山の住職代理をしている南直哉というお坊さんの著作で使われている言葉を思い出すんだけど、人間の心というのは「不動心」という言葉で想像するように全く動かないようになるというのは、どんな仏教の高僧でも無理である。


で、南さんのいうことには、何か出来事があったときに心が揺れるというのは自然なことであるけど、ちゃんと自分の軸で「これはぶれさせない」ということを決めておいて、ヤジロベーのように揺れながらも自分の軸だけは外さないのが「不動心」であると言っていた。


苦しいことがあれば、人は弱音も言うし捻くれもする。全くそれを排除した理想像を自分に課していると、とても苦しくなる。なので、苦しい出来事があったなら揺れてもいい、でも「これが自分である」と言う一点は定める。そうすることで大きな脱線はしない。何か嫌なことがあった時に、状況や感情に流されるままでは、最終的には大きな虚無感に襲われる。これは自分だという一点さえ定まっているのなら、何があっても戻ってくることができる。


別にその一点に関しても何か立派なお題目を立てる必要もないんである。夜はちゃんと寝るとか三食ちゃんと食べるとか、そういう生活に根付いた習慣を守るとか、それも立派な自分の軸だ。


僕の場合だと、自分の軸というのは確実にこのブログは欠かさず毎日書き続けるということである。そして、ちゃんと会社に行って、ジムに通い、趣味の小説執筆も続ける。人生が苦しいと感じてもやけを起こさない。日々の生活の中で、やるべき習慣はちゃんと守り、そして自分なりに感じたことはブログに書きながら人生を続ける。


生きることの修行なんてものを考えたりもするんだけど、必ずしも仏教の禅寺みたいに毎日座禅をしたりとか戒律にガチガチに縛られた生活をする必要はない。ちゃんと生きていて、そしてその人生の中で守るべき人倫の道を守り、中庸を大事にした考え方をしているのなら、別に悟りなんてものに到達しないとしてもきちんと人生を生きることはできるのだ。


南さんという坊さんはそういうことを言いがちなんだよね。南さんが軸にしているのは、「生きることと死ぬこと」のような難易度の高いものを選んでるんだけど、この方は子供の頃に小児喘息で何度も死にかけて、子供ながらに人生の無常感に気がついて仏門に入ったからこうなってるとのこと。南さんは仏教を通じて「きちんとした死に方」を研究してるような坊さんである。


人生クソゲーというのは、そういう自分なりの人生の課題であるとか、与えられた人生の問いとかが大きいんだと思うんだけど、おそらくきっちりとその問いから逃げずに取り組んでいると、自分が死ぬ頃には何かしらのやりがいのようなものに気がついてると思うんだよね。人生の生き甲斐というのは、そういうちゃんと課題に立ち向かった達成感から得られるものであるし、インスタントな答えではインスタントな達成感しか得られない。


なんでまぁ、人生をめんどくせーと思ってお手軽な答えに逃げてしまうと、多分自分が後悔すると思うんだよね。「なんだこれは?」と思いつつも、毎日記録をとりながら真正面から取っ組み合う。そういうことを続けてるうちに、いつしか大きな満足感に気がつくことができるんじゃないかと思う。僕は人生の課題についてはそう考えるがな。

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