
色々とバグってる物書きマシンの自覚はある。
これを書いてるのは午前中なのだけど、今日は所用があり午前半休なのである。テキトーに音楽を聴きながら今はこうやってブログを書くためにキーボードを叩いている。
ブログの書き方についてちょっと考えることがあるよね。僕はこうやって毎日更新で3300日以上も書き続けてきたけど、これを毎日手間暇かけて規則正しく書き続けるというのは、明らかに正気の沙汰ではない。
ブログってさ、日記と混同されがちだけど、別に必ずその日にあったことを書くための媒体という訳でもないんだよな。自分が思いついた時に、記事を書き溜めるのでも全然問題ない。むしろ僕のように毎日更新にこだわるタイプであれば、余裕がある時に予約記事を大量に書き溜めておき、それに更新を任せるのも悪くない。
そういうスタイルに変更したいよなーということは、何度も以前も話したことがあるような気がする。どうも、僕はASD的な毎日の習慣で記事を更新してしまうタイプのブロガーなもので、その習性に任せてちゃんと毎日規則正しく書き続けるということをしてきたのである。
自分がそうやってやることに困難を感じないというのであれば、別にそれでも構わない気はするんだけど、いつアクシデントがあって描けなくなるかというのは、僕は恐ろしくて仕方ないんだよね。最近も母親の救急搬送で病院からブログを書くということもあったし、いつ自分が倒れてブログの更新が途切れるかというのは想像するだけで恐ろしい。
なんか、色々と欲求が拗れてる気もするけど、ブログを毎日書くことが趣味を超えて義務になってる感じは否めない。いや、僕はこういうのありがちだけど、「ベキネバ」で生きてるもんだから、趣味で毎日やってたことが義務感で追い詰められながらやってることはよくある。
なんでやってるの? って聞かれたら「趣味だから」としか言いようがないんだけど、趣味で九年以上もブログを毎日更新するのは単なる狂気である。なんでこんなことしてるんだろう? と聞かれそうだけど、僕自身理由はよくわからないのである。1000日更新あたりでやめ時を見失ったから今でもまだ続いているとしか言いようがない。
しかしまー、この手の続いているものというのは、時間の経過で積み上げられた歴史がそれなりに価値を持ってしまうというのもありがちである。伝統文化とかで狂言とか俳諧とか色々とあって、あれも歴史があるから価値があるとされているけど、最初に始めた時は単なる暇人たちの遊びだったはずである。それが歴史が積み上がってしまったので価値を持ってしまったのである。
僕のブログも20年ばかし毎日更新とかしてみるとそれなりになんらかの民俗史的な価値を持ち始めることもあるかもしれない。特に最近はネットの文化の流れというのは異常に早いので、過去の情報が陳腐化することも早い。その中で、まともにその時代を観測して記録を残してあるブログというのは、将来的にネットの文化研究になんらかの意味を持つこともあるかもな。
別に僕はそれを目的にブログを書いてるという訳でもないけどな。単に日々の生活の中でダラダラと生きて、強迫観念でブログを書いてるだけである。僕の脳には文章を吐き出す器官があるらしく、一日に一度も文章を書かないとフラストレーションが高まってくるのである。旅行の時などで予約投稿をしてる時とかも、これのせいで眠れなくなることもある。
こういうことを考えるのであれば、別にストック型で書き溜めようだとか頑張る必要もそんなにないのかもしれない。でも、更新途切れ対策としては、ある程度ブログ記事のストックについては作成してた方がいいよな。毎日更新ではなくて予約記事を数日分貯めておいて、一日途切れたぐらいでは大丈夫にしておくとか。
流石にさ、これから先もこういう生活をずっと続けるのって無茶だと思うんよ。やっぱり一日1記事と決めてしまうのではなくて、2記事ぐらいはガンガン書き続けておき、それをストックとして貯めて簡単には途切れないようにしておいた方が良さそう。
最近はまぁ、音声入力で記事を書くようにもなったので、ブログ記事を書くのは圧倒的に楽にはなったのだけど、やる気に頼ったやり方をやってると、惰性で続けるというのもなんの進歩もなさそうだよなーという気がするんだよね。少しはやり方を効率良いやり方をするように工夫するとか、冗長性を少しは増しておくとか、そういう工夫が必要だと思うのだ。
「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」などとなぜかパワハラ上司みたいな言葉が頭に浮かぶのだが、どうせ物事をやるんだったら楽しくやろうというのが最近の僕のテーマである。自分の特性に任せて力おしばかりではなくて、ちょっとは工夫が必要だろう。それで新しい世界が見つかることもあるしさ。