小説で書く文章の理想なんぞを考えている。
何を書けばいいんだ……。コロナにより自宅隔離状態で、なおかつ台風11号によって自宅に閉じ込められている状態。ネットを見ても何かしら面白そうな話題というのは見つからないし、今日は本当に書くことないぞ。
あ、そういえば台風11号は沖縄本島地方はそこまで大したことなかった感じ。ただ、この台風、結構強力なやつなので内地に行ったら被害がたくさん出るんじゃないかと思われる。九州地方とかでもまだ防災グッズを用意したりとか避難の準備をしたりする余裕はあると思うので、今のうちにできる準備はしといた方が良いですよ。
ほんと、今日は小説書く以外は何にもしてなくて、何を書けば良いのか悩む。自宅隔離状態はやることがなくて、カクヨムなんぞで無駄に小説を読んだりするぐらいしかしていない。ここ最近、小説執筆関係のことばかり書きまくってるので、そろそろ読者もマンネリしてないか?と思って、ブログで書くのも躊躇しちゃうんだよね。まぁ良いかな。今んところ僕のマイブームは小説執筆であるし、この熱が盛り上がってる段階で色々と書けるようなエントリーというのも存在するであろう。
なんかさ、よその人の小説を色々と読んだりしていると、自分の文体って気になるよね。自分が他人の小説を読んだりするときに好きなタイプの文体というのは、結構地の文が硬めで、鮮やかに風景や心理の描写をしてるような文章というのをみると「うまいなー」という感想を持ったりする。逆に会話の掛け合いだけであっても、そこにきっちりとキャラクターの見えてる情景などを切り分けて、そこから起きるコミュニケーションの齟齬なんかをきちんと描き切る文章もこれまた、いとおかし。
今、自分の小説を書いてるから執筆をしつつも自分の小説を何度も何度も文章を読み返したりするんだけど、どうにも目が慣れてしまったのか「うまくないなー」みたいな荒が見えてきちゃってるのよね。というか、他の上手い人の文章を読んで感心しているんだけど、それで自分の文章を顧みて、自分の文章はなんか違う。どうにも文に込める情報量の密度というのがスカスカで、想像しているイメージを文章できっちり伝え切ってないなと思うんである。
とはいえ、こりゃまぁ単なる自分の好みである。小説なんぞで必要以上に情報量が詰め込まれたやつというのは、読者がそれを読み解くためにえらくカロリーを必要とする文章であろう。文章を書く上での常識みたいなものでもあるが、同じような内容を伝える文章であれば、簡潔で短い方がいい。谷崎潤一郎の「文章読本」を引っ張り出してくるまででもないが、必要以上に華美な文章というのはそれほど良い文章でもない。詩や俳句という風なジャンルもあるが、文体が美しい文章がそれすなわち素晴らしいというのもなんか違うのだ。
小説というのは、ストーリの中で起こる出来事から派生してキャラクターの心情などを描いてそれを楽しませる文章である。そこにある文章というのは単なるメディウムでしかない。小説で書く文章で最も理想とするのは、読んだ人がなんの違和感もなく物語の中に感情移入することができる文章である。小説を読んでいて、ふと誤字脱字なんぞに出くわしてイメージが壊れることがあるけど、そんな風な感じで読んだ人に違和感を感じさせてしまう文章というのは不味い。あくまでも文章というのは物語の背景役に徹することで、障害なく物語を読み進めることができるように努めるべきだ。
とはいえ、他の人の文章を読んでいてこれは上手いなーと感じる表現を見つけたりする。文章というのは表現するツールでもあるし、ストーリの進行を少し遅らせてでも描写を密にすることで得られる効果というのもあるもんだなと感じる。ここぞというクライマックスシーンでは、徹底的に物語の速度をスローリーにして細部に至るまでしっかりと描き切るのは舞台効果としてありだろう。そういう効果演出としての濃厚な文章の使い方というのは僕もいくらか分かる。
でも、なんというか、ここ最近の流行りの文体でもあるけど、文体自体で言葉遊びをしつつそれできちんとストーリを展開しちゃうような難易度の高い小説を書いたりするような小説家もいたりするのである。こりゃーまぁ、一種の才能みたいなものであるから真似できるもんでもないな、と思いつつそういう言葉遊び文体にも憧れを持ってたりする。これも効果的に使えば、変わった読書体験を生み出すことができる技法であろう。
と、まぁ自分なりの文章論を展開してしまうのである。ワナビみてぇだなと思いつつ、物書きをやる奴というのはこういうメタ視点からの文章というのを好んで書いちゃう性質があるんだろうなーと思う。大概、こういうもんは独りよがりになるもんだし、ブログで書いてもなんも得るもんないけどなーと思いつつも書くのである。明日はなんか書くことあれば良いのだけどな。