
言葉で絵のトレーニングをする方法なんかを考えている。
今日もひとつ、はっきりしてきたことがある。絵がうまくなるためには、ただ手を動かすだけじゃ足りなくて、「言葉で理解すること」が思っている以上に効いてくる、という話だ。
昨日はストゼロ勇者のリヴィアとカエザルのラフを描いていた。ポーズをざっくり決めて、「まあこんな感じでいいか」と進めていく。カエザルの頭が小さすぎるな、とか、カエザルの左奥側もう少し引っ込めた方がいいな、とか、そういう違和感を拾いながら微調整していく。ただ、ある程度「適当さ」を許さないと前に進まないのも事実で、結局は「いったん完成させる」が正義だったりする。
背景もどうするか少し迷った。リビングの写真をドンと置いて、魚眼レンズみたいにフィルターで歪ませたら面白いかもな、なんて考えたけど、ああいうのは空間全体をコントロールできる画力が前提になる。今の自分にはちょっと荷が重い。
じゃあAIで背景出すか、みたいな逃げ道も頭をよぎるけど、それもそれで引っかかる。結局、「まあいいか、まず仕上げよう」に落ち着く。この雑さと前進のバランスは、たぶんずっと付き合うことになる。
で、本題はここからで、最近ずっと考えているのが「上達って何なんだろう」ということだ。 ジェスドロを毎回20分やってから本番の絵に入る、みたいなルーティンは回しているんだけど、それだけで劇的に何かが変わる感じは正直ない。むしろ、「どういう練習が上達に直結するのか」を考えている時間の方が長い。
そんな流れで『「コツ」と「スランプ」の研究』みたいな身体知の本を読んでいる。ここで面白いのが、身体で覚えるものと、それをどう言語で扱うか、という話だ。
体の動き自体は非言語だ。目と神経と筋肉で処理される。でも、それを「どう感じているか」「どう再現するか」を言葉で捉えようとした瞬間、別のレイヤーが立ち上がる。
瞑想をやっていると特に感じるけど、言葉って感情にかなり強く作用する。たとえば「ラベリング」。この感情はイライラだ、とか、不安だ、とか名前をつけるだけで、妙に落ち着いたりする。これは単に抑制しているんじゃなくて、「扱える状態にしている」感じに近い。
だったらこれ、モチベーションにも使えるんじゃないかと思う。やる気が出ない、で終わらせるんじゃなくて、「これは疲労による回避反応だ」とか「これは難易度の見積もりミスによる抵抗感だ」とか、もう少し精度の高い言葉に置き換える。すると、対処方法も見えてくる。
絵の練習も同じで、「なんとなくこう動かす」から抜け出して、「この線は肩から引いている感覚」「このバランスは重心がここにあるから安定して見える」みたいに、言葉にしてストックしていく。 この「感覚に再現可能な言語化」が、自分にとってはかなり重要なんじゃないかと思い始めている。
本の中でイチローの話が出てきていて、これが妙に刺さった。新人王を取ったとき、自分がなぜ打てているのか分からないのが気に入らない、と言っていたらしい。これ、すごくよくわかる。できてしまうことより、「説明できること」の方に価値を感じる感覚。
自分も筋トレでも絵でも、感覚だけで上手くなるより、「なぜそれができるのか」を分解して理解しないと気が済まないタイプらしい。日々メモを取りながら生活しているのも、その延長にある。感情でも行動でも、「ピタッとはまる言葉」を見つけた瞬間に、少しだけ世界の解像度が上がる。
そしてたぶん、この言語化の力って、言葉そのものの能力にとどまらない。むしろ、非言語のスキルを習得するための“インターフェース”みたいなものなんじゃないかと思っている。動きや感覚を、そのままではなく「扱える形」に変換する装置。
世の中には絵が上手くなる方法が山ほどある。けど、それをそのままなぞるだけじゃなくて、「これは言語でいうと何なのか」と翻訳して、自分の中にインストールしていく。そのプロセス自体が、ひとつの技術なんじゃないかという気がしている。
まだ全然まとまってないし、あくまで興味の範囲ではあるけど、この「非言語を言語で扱う」みたいなテーマは、しばらく追いかけることになりそうだ。 大学では専攻は心理学科の認知科学だったのでこの辺りは興味深い。
とりあえず今日は、描きかけのラフをちゃんと仕上げるところまで持っていく。そのうえで、「今の一枚から何を言語化できるか」を考えてみるつもりだ。
たぶん上達って、「うまく描けた枚数」じゃなくて、「再現できる理解がどれだけ増えたか」なんだと思う。そんなことを考えながら、今日も一枚積み上げていく。
