超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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氷河期世代が老後に見捨てられそうなのをどうするか考えた。

氷河期世代が老後に見捨てられそうなのをどうするか考えた。


今日は土曜日であるな。午前中は6時に起きて、そして朝ルーチンのいろいろな雑事を片付けたあと買い物に行ってきた。午後からはサウナに行ってきてカフェでブログを書いている。最近、疲れを溜めているせいかネガティブな発想に陥ることが多かったので、今週の週末はできるだけ疲れを抜くように休息を重視しようと思う。


と、宣言したものの、ネットを彷徨っていると気になるニュースを見つけてしまうのである。あんまりネガティブな情報は摂取しないように気をつけてるものの、自分の利益に影響しそうな情報に関しては看過するわけにもいかず、さっきからちょっと考えてしまっている。こちらの情報だ。


togetter.com


氷河期世代の人間というのは、バブル世代以上の世代の老後を支えるために散々苦労させられてきた。子供の頃にはいじめとか体罰は普通に存在していたし、どれだけエントリーシートを送っても面接にすら辿り着けない就活時期だとか、それでなんとか就職に辿り着いてもブラック企業サービス残業当たり前で使い潰されたりだとか。それでいて、社会保障費などの負担は大きく、老人達の年金を補償するために就職氷河期世代ぐらいの労働者がなんとか働いて支えている。



こうやって就職氷河期ごろの世代が老人になった時に、切り捨てられる可能性というのは非常に高いんじゃないかなというのは、僕も想定している。今現在でも政府が積み立てNISAだとかそういう積立投資の育成に力を入れているのは、将来的には年金を打ち切って老後の生活は自己責任ということにしてしまおうと画策してんじゃねーかなと思う。年金は出るかもしれないけど、受給年齢が今までも60歳から65歳に変わったりとかどんどん先送りされてるように、僕が老後になる頃ぐらいには70歳ぐらいにならないと年金が受給できなくなってるんじゃないかなーというのは普通にあり得る話である。


氷河期世代の扱いがここまで酷いことについては、氷河期という世代が政治的な連帯という行動を馬鹿にしてきたことを指摘している人もいる。氷河期の前の世代だと、学生運動の頃に連帯して大学をロックダウンしてきた世代だとか、それから後もデモを行ったりストライキをしてきたりとか連帯して民衆の圧力で政治を変えようとしてきた人たちがいた。氷河期の世代の人たちというのは、個人主義が台頭してきた世代であり、そんなふうなデモやストライキがダサいとして軽視されてるような風潮があったように思える。学生運動が派手にずっこけた後の村上春樹のスタンスみたいな。なんか、個人としてクールに人々の風潮を遠くから眺めているのがカッコイイみたいな空気感はなんとなくわかる。


なんとなく、氷河期の世代で連帯がダサいという風潮になったのは、オウム真理教の起こしたテロというのが大きな影響を及ぼしたんじゃないかなと憶測する。訳のわからん宗教組織とか政治結社が危険な存在と認識されて、そうやって集団で集まって何かをするのは危ないこととして忌避反応があるのが我々の世代のような気がする。


氷河期世代から個人主義というのが日本でも広がり始めて、さらに後の世代にいくに従ってそれが一般化していった。これは、インターネットによる情報技術の発達とも関連があるだろう。個人で完結して楽しめる娯楽というのが広がって、生活圏の中に他者との関係性がなくなってもとりあえず生きていけるようになった。コミュニケーションが電子化して、人間の生の声というのが生々しくて不快なものとして感じるようになったと思うね。


それで氷河期が切り捨てられそうなのをどうしよう?ということであるけど、今更みんなで集まってデモとかストライキするのが正しいかー?と問われると、それもなんか時代に合わない気がするんだよね。氷河期世代から始まった個人主義の台頭であるけど、氷河期の後の世代ではさらに深く広がっている。若い世代はさらにクールで個人主義的だ。氷河期世代が突然集まって集会なんぞ始めても、若い世代の支持を受けるよりも反発を受ける可能性が高いんじゃないかと思う。


僕個人の考えとしては、個人主義の更なる深化を追求していってディープデモクラシーでも実現してはどうかなと思うんだよね。


www.balancedgrowth.co.jp


インターネットによって今まで出会わなかった人たちが出会うようになったのだけど、今のところ過渡期で、喧嘩になったりすれ違ったりしてる。ポピュリズム政治家にいいように利用されて社会の分断が起きたりもする。インターネットという技術の真のポテンシャルを利用するためには人類はまだまだ精神的に幼いのだ。これから先の未来、倫理観や法整備などを通じて、インターネットで多くの人が交流するのに足る文化的な基盤というのを打ち立てていけば、社会から取り残されるマイノリティを一人のこらずを救うことができる政治形態というのができるかもしれない。


そういうところで必要な技術というのは、台湾でオードリー・タンが作ったインターネットによる政治参加のようなプラットフォームを、日本でも技術的にも法整備的にも成熟させていくことであるかな?と思う。デジタル庁には死ぬ気で頑張ってほしいところである。僕はまぁ、ITエンジニアであるから、システムを使って問題解決する方法で氷河期世代の問題なども考えちゃうかな。

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