困ったことが多いから生きる理由を書いてみた。
今日は午前中はスーパーに食材の買い出しに行き、その後、いつもの海岸で瞑想をしていた。午後からはカウンセリングがあったので行ってきた。
カウンセリングは相談することが無くなってしまい、困ってしまった。いや、身内の揉め事とか色々とあるんだけど、最近、風邪を引いてたために思考がリセットされちゃった状態で、自分のカウンセリングなのにネットの出来事あれこれとか書いてる小説の話なんかをしてお茶を濁してしまった。
しかし、なんか、身内関係の話はどんどん嫌な雲行きになってきてるな。ブログであんまり詳細を書ける話でもないんだけど、疎遠で20年は会ってない父親が病気で死にそうだとかそんな噂が親戚から流れてきており、またかと頭を抱えている。
半身麻痺の母親の介護にしても、父親の後始末にしてもそうなのだけど、祖父母と親世代のやらかしのせいで僕が大層迷惑を被ることになっており、たまに親戚から矢のような電話が届いたりするのである。
財産関係とかそういうのはいらないんだけど、親戚に迷惑を掛けるのは嫌なのである。ほんと、僕は父親も母親も嫌いで、幼少時代から結構ハードモードな人生を送ってきたのだけど、なんでこんなに運命の巡りが無茶苦茶なのかは以前からずっと謎だった。
愚痴を言っても仕方ないんだけどさ、たまにはブログで愚痴でもこぼさせてもらってもいいかな。ほんと、僕の人生は良いことと悪いことの比率というのが明らかにバグっている。今までの半生を振り返ってみると、自分の人生は死んでないのが不思議なぐらいずっと不運続きなんだよね。
んー、なんか、逆にこういう不運が続きすぎてメンタルが鍛えられちゃったよね。こういう不運なことが起きた時は「そんなもんだ」とか「それがどうした」みたいな言葉が浮かぶ。自分自身、比喩ではなくマジで死にかけたりしたことが2~3回ぐらいはあるし、こういう時に浅田次郎の「壬生義士伝」で読んだセリフではあるけど「人生、これまでかと思うと石にけっつまずいても死ぬ」とかそんな言葉をうそぶいてるのである。
どうも、生きる意味とかそんなことを考えてる時がよくあって、それで何か参考にならないかと思って哲学系の新書であるとか場合によっては原著を読んでみたりとか、宗教的なところに何か理由がないかと思って宗教系の本も読んでみたりする。
実存哲学とは相性がいいみたいで、ヴィクトール・フランクルのロゴセラピーをとりあえずの僕の生きる根拠としている。それ以外にはセネカなどのストア主義哲学の箴言を困った時に呟いている。あとは、アランの「幸福論」は座右の書であり、困った時はパラパラとめくってみて気になった章を読み返している。
こういう、思想に生きる理由を探すことは、自分にとっては生きるための戦略なんだよね。絶望に沈み込むのは簡単であり、それで自己憐憫するのは気持ちが良いが、何の救いにもならない。
自己憐憫をして自分を慰めようとしてることも今まであったけど、その態度というのは自分が苦しいというのを他人に見てもらおうとするだけの態度であり、全く何の問題解決にもつながらない。むしろ、傷を掻きむしって痛みを増すだけの行いであり、そういう自分に酔っているのは麻薬以外の何者でもない。
僕は苦しいときは自分を鼓舞するための文章を書く。客観的に周りから見ても、自己憐憫でネトネトした文章を書いてるよりは、そのような前向きの言葉を書いてる方が見栄えがいい。見栄えの問題じゃないかもしれないが、落ち込んだ時ほど自己肯定感を下げるような醜い態度は取らない方がいい。
セネカの言葉であるが「卑しい者、才に乏しい者にも成功は訪れるが、人生の惨事や混乱に打ち勝てるのは偉大な人物の特質である」。これと僕はフランクルのロゴセラピーを組み合わせる。自分の人生でこのような困難な出来事が起きるというのは、人生からそのような「問い」を受けているということである。自分の実存で、与えられた「問い」に対して自分なりの答えを出すことが生きることの理由であろう。
一体、生きるというのはなんだというのは高校生ぐらいの時からずっと考え続けてる。自分は周りの人のように、器用に外部のメディアから生きる理由を借りてくるという生き方はできない。自分の手で言葉を集めて、自分の頭で考えないと納得できない。
賢い生き方とか器用な生き方はできないかもしれないけど、自分なりに目の前の問題に対して真摯に向き合うというのが自分の在り方であろう。問題から逃げず、自分の頭と言葉で考えて、それに自分の答えを出す。その行い自体が生きるということであり、それは人と比較してどちらが優れているというものでもない。
僕は自分自身の美意識に反するような醜い生き方はしないでおこうと思う。困難というのはどのように対応するかでその人の本質というのを露わにする。醜い行動や考え方をしてると生きることが嫌になってくる。苦しい時こそ姿勢を正して、仁義に沿った生き方をしようと思う。多分、それが一番自分が楽な生き方だから。