
人生に意味はないけど、生きねばならぬ。
今日は午前中は美容室に行って髪を切ってきた。朝から頭痛がしたりなどで調子が悪く、午後もカフェでニュースレターを書こうとしたが、全く手が動かない状態で適当な記事を書いて送ってしまった。
全く度し難いことなのであるが、病気をしたのちは1年のうちの半分ぐらいは体調不良であり、しかもそれは平日だけとは限らんのである。それをなんとかするために筋トレをしたりサプリを飲んだりなどしてるが、どうにも全く改善しない。
たまに本気で人生が嫌になるが、しかし嫌だと言ったところで誰も責任をとってはくれないのだ。誰も責任を持たないのに何故か勝手にこの世界に突然存在させられて、そしていつか100%の確率で死ぬ。人間の人生というのはどう考えても単なる苦行なのであるのだか、それでも生きないとならないと押し付けられたようなものだ。
などとネガティブなことを書いているが、別にこれもそこまで本気ではない。生きる理由というのはよく考えるけど、「特にない」というのが結論だ。しかし、その理由がない中でなんとか充実感を求めていろんなことをやらないとただ苦しいだけだ。
人生の意味はよく考える。僕はその理由としてはフランクルの理論などを採用しており、「人生に意味はないけど、その問いに応じることが理由になる」ということを考える。
よくよく考えて欲しいのだが、この世界の存在する理由自体が自分とは関係がなく、その中で僕らは何故か自分が主人公のつもりで生きているが、それすら単なる思い込みだ。
人生をある程度生きてみると、どうやら自分はこの世界では主人公でもなく単なるモブの一人であると気がつく。これはできるだけ早いところ認識はしておいた方がいい。いつまでも自分が主人公感が抜けないと、いつまでも自分に過大な希望や自信を持ちすぎてしまい、現実を生きられずに夢現のままに人生が終わる。
しかし、それで現実を直視しすぎるとどうなるかというと、ニヒリズムで生きる理由がわからなくなる。これは僕も何度か経験して潜り抜けたけど、生きることも死ぬこともこの宇宙の中ではなんの意味もないけど、それでもこの世界を見る自分の視点は一つしかないのだ。
なぜ、この自分の視点を持たされて自我というものが生み出されたのかよく分からんが、そこには特に理由はないようではある。しかし、ある程度の目的意識を持って生きないとかえって苦しくなる傾向があるようなのだ。
世の中には宗教とか哲学とか、人間が生きるための方針を教えてくれる論理体系があるけど、その理屈自体にはそれほど意味はないけど、それを本気で信じ込んで生きてみると随分と人生に充実感が生じるようなのである。
人生で100%成功する方法はないけど、主観的に見て「正しく生きてる感」とか「ちゃんとやってる感」で充実させて主観的な生き方で満足する生き方はできるなと思う。
僕が生活の中でいろんなことをできるだけ他人の役に立つ生き方をしようという「お役に立てればよし」とか、できるだけ人倫の道に外れず正しく生きようというのは、そうやって自分が信じる正しい生き方をしてることで充実感が生じるからだ。人生で必ず「こうあらねばならぬ」という理由はないけど、できる限り自分が正しいと主観的に信じることをやると人生のコントロールを少しだけ取り戻せるような気がする。
要するに「人生に意味はないけど、意味があるつもりで生きるとやりがいが生じる」。フランクルもそういうことを言ってるのだろう。世の中ではこれが答えだと、受験問題の答えのように正しい生き方を教えてくれる自己啓発だとかいろんなインフルエンサーの答えがあるけど、それらに特に意味はない。でも、意味があるつもりで取り組んでみるとどんな答えもそれなりに熱が生じる。この熱には意味がある。
しかし、自分が生きるに値する意味というのは、できるだけ慎重に選んだ方がいい。どんな意味も究極的に言えば自己満足できれば問題ないのだけど、やはり他人に迷惑をかけたりとかする意味はよろしくない。それと、あまり現実と乖離しすぎてる意味も、これはいつしか冷めた時にダメージがデカくなる。
結局、人生を生きる意味というのは、どれも気休めというのが僕の答えなのだけど、それに本気で取り組んでる時の熱量というのが生きる充実感とかコントロール感覚だよなーと思うんである。これはアリストテレスの「エネルゲイア」とかその辺りの哲学的な概念で表されることだけど、もうちょっとその辺りも調べないとな。
P.S. これを元にチャッピーと壁打ちをしたところ、結局体調が悪い時に哲学をすると全部ニヒリズムに陥るということで、真理というのは結局、「規則正しい睡眠と健康的な食事、そして適度な運動と健全な人間関係」というところで落ち着いた。