自意識過剰は加齢とともになんとかなることが多いっす。
沖縄はすでに夏真っ盛りであり、ビルの外に出るとムワッと熱気に包まれるような季節になっている。やっぱり異常気象なのかは分からんが、10年前ぐらいと比べると夏の暑さというのが殺人級になってるように思われる。
季節の中では夏はあまり好きではない。僕の性格の心象風景というのは、冬場の人のいないビーチなのである。レゲエ・砂浜・ビッグウェイブ的なものにはさっぱりとノレない。根っからの陰キャであり、みんなでワイワイビーチパーティで騒ぐというイベントごとが大嫌いであり、できるんであれば一人でクーラーの効いた部屋で本でも読んでる方が楽しいという性格なのである。
沖縄県民の県民性というのは、全体的に陽キャのノリというか、知らない人でも一緒に酒飲めば友達! 的な、基本的に明るくて陽気な人間が多い感じである。一方、僕の性格というのは飲み会の時も部屋の隅っこで畳の目の数でも数えてるような性格というか、基本的に陰気であり、一人でいる時が一日の時間の中で一番充実しているという感じの人間である。
こういう人間は子供の頃にいじめられがちであるが、わりかしお勉強はできたタイプなのでそこまで孤立はしなかったな。小中高とほとんど図書館に篭りっきりみたいな生徒だった。本を読むのが好きであり、高校時代の時は図書館で世界文学全集とかあのあたりの本を読み漁ってるようなタイプの学生だったね。
なぜか高校時代の時はグレており、体育祭とかそういうイベントになると友達の不良たちと一緒になってボイコットして学校外に逃げ出したりみたいな高校生だった。友達がヤンキーとかダブって同級生の先輩ぐらいしかおらず、ヤンキーがタバコを吸ってる側で哲学書を読んでるような感じの変な人だった。
こういう内向的で色々と反社会的な精神を拗らせたような性格だから変な病み方もする。素直なものの見方をすることの重要性を学んだのはかなり人生の後半になってからである。やっぱり高校生から大学時代にかけては妙に斜に構えた考え方をしてみたりとか、自分は世の中から浮いて変なヤツじゃないのかと悩んだりするかもしれないが、これはちゃんと生きてみるとなんとかなるのである。僕はそれを実感するまでに莫大な授業料を払いすぎて損益分岐点超えて足が出てるので、年若の人たちには反面教師として学んでもらいたいものである。
人の基本的な性質として、自分自身で自分の在り方を考えようとする時、「自分は他の人と比べて特別である」と考えるのがデフォである。人と比べて特別に優れているとか、劣っているとか、そういう捉え方をするもんである。
そういう自分の中の自意識過剰な部分をうまく誤魔化して社交的に振る舞うことができる人もいるけど、「これは自分だけじゃないのか?」と自分のコンプレックスはみんな密かに悩んでいるのである。人とズレた部分を社会で戦うための強みとして活かせる人も居たりするけど、そういう人はまた別の部分で悩んでるもんである。
自分は変じゃないかーと悩み続けてノイローゼになったりするような人もいる。僕がそうだった。人が嫌いであり、いちいち分かりきったことを再確認することに手間を掛けてるような周りの人々を馬鹿にしていた。自分は特別な「何者」であり、そういう自分が賞賛されないことに不満を感じており、自分スゴイPRをしてみたりとか、わざわざ攻撃的な表現を使う変なキャラ付けをしたりとかしてた。
結論から言わせてもらうと、こういう悩みというのは思春期から青年期に掛けてはありがちというか、歳をとるとなんとかなっちゃうもんである。むしろ、若者のうちにこういうことをしっかりと悩んでおかないと人生後半で妙な拗らせ方をする。40過ぎてから未経験から漫画家デビューをするために仕事を辞めたりとか、ある程度会社でも役職が付いたのちに自分の偉さを確認するために配下の者にパワハラやマウンティングしまくって訴えられるとかそういうやつである。
すでに死語だが、「自分探し」というのは適切な年齢で適切に悩んでちゃんと済ませておいた方が人生楽だよ、ということである。「何者」かである特別な自分を探して、いろんな書籍とか情報を漁ったりとかして悩んでみたりとか、色々とコミュニケーションにおいてすれ違って痛い目を見たりするのは若いうちに済ませておいた方がいい。
こういう自分探しをやってみると、最終的には「自分は何者でもない」ということに気がつくことになる。「私」というのは玉ねぎのようなものであり、むいてもむいても本当の自分は見つからない。そういう経験を通じて「何もない」ことに気がつくことが大事なのである。
こういう自分とは何者かという悩みから逃げ続けて老齢期まで行けちゃうかもしれないけど、そういう人生って多分、周りの人々や環境に流され続けて、社会的には成功していても何もない人生であると思う。苦悩が深いからこそ人生に深みが生まれることもある。少なくとも僕は人生の意味についてある程度悩んでる人の方が、味があって好きだ。