超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

小説を書くモチベーションが減ってるな。

小説を書くモチベーションが減ってるな。


最近、「国宝」という映画を観た。あれは久々に心に残る作品だった。感心した勢いで、今度は原作の『国宝』をオーディブルで聴きながら読んでいる。もうすぐ読み終わるけれど、映画とはずいぶん違う。映画はやたら残酷で、精神をえぐるような描写が多かったのに対して、小説のほうは主人公・喜久雄の波乱万丈な人生を淡々と描いていて、むしろ人間味に溢れている。映画が「芸の狂気」を描いているなら、小説は「芸の持続」を描いている。どちらも「芸事とは何か」を突き詰めているけど、切り口が違うんだ。


読んでいて思うのは、芸事って結局「続けること」そのものなんだなということだ。人間は習慣の生き物だとよく言うけど、ほんとその通りだと思う。一時的なやる気なんてものは、天気みたいに移ろいやすい。モチベーションに頼って何かを始めても、三日か一週間で霧散する。だから、やる気の波に乗るんじゃなくて、波のないときにどう動けるかが勝負なんだと思う。モチベーションを「上げる」のではなく、「飼い慣らす」感覚が大事なんだ。


僕も今、「神とストゼロと女騎士」という小説を書いてるけど、これが思いのほか時間がかかってて、1か月以上経っても終わらない。書き始めの頃は勢いがあったのに、途中から気持ちが切れてくる。モチベーションってほんと気まぐれだ。村上春樹が言ってたように、長編を書くにはモチベーションの管理がすべてだと思う。物語の世界に興味を持ち続けるのが何より難しい。いったん飽きてしまうと、書いていても自分で面白くない。根性で乗り切ろうとしても無理がくるし、書くことが苦行になるだけだ。


だから僕は、少しでも飽きが出たら、別の角度から世界を覗くようにしている。別のシーンを書いてみたり、キャラクターの過去や未来を想像してみたり、スピンオフを短く書いてみたりする。そうやって物語世界に呼吸を与える。書くというのは、何も他人に見せるためだけじゃない。自分がその世界の中に留まり続けるために書くという行為もあると思う。効率を求めて「無駄」を切り捨てる人間には、小説は向いてないんだろう。むしろ、無駄を抱きしめて、意味のない寄り道をして、それでもまだ続きを書こうとする人だけが残る。そういう泥臭い営みを「芸事」と呼ぶのだと思う。


小説家という職業は、どこか狂気じみている。プロの小説家が書いた文章読本を読むと「15年間一日も休まなかった」とか平然と書いてある。普通の感覚じゃない。でも、たぶんそれくらい「書くこと」と自分の境界が溶けてるんだろうな。毎日書くというのは、もはや意志じゃなくて呼吸なんだ。そこまで到達した人たちは、モチベーションをコントロールしているのではなく、すでにモチベーションから自由になっている。僕はそこまで行けるとは思わないけど、少なくとも「書くことが日常の一部になる」くらいまでは続けたいと思ってる。


最近は小説以外にもプログラミングやイラストをやりたくなって、気が散ることも多い。器用貧乏だなと思う。でも、興味が移ろうのは自然なことだし、そこに罪悪感を持つ必要はない。むしろ、その散漫さの中に自分の創造力の根がある気もする。問題は、そのエネルギーをどう扱うか。モチベーションを追いかけるんじゃなく、地中に根を張るようにして、静かに熱を保ち続けること。それができたら、芸事はもう半分成功だと思う。


結局、芸事って「気分」じゃなく「態度」なんだ。今日はやる気があるかどうか、じゃない。今日もとりあえず机に向かう、それだけで十分だと思う。書ける日も、書けない日も、その差を問題にしない。続けることそのものが芸になる。『国宝』の喜久雄も、きっとそうやって自分の芸を磨き続けたんだろう。僕も、自分の小説という小さな芸の中で、その態度だけは見習いたいと思う。

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