
物語持ちの矛盾と葛藤について。
はい、おはようございます。今日は金曜日の朝である。
正直なところ、まったくやる気が出ない。完全に燃え尽きた感じがする。気合でどうにかなる段階はもう過ぎていて、生活全般がだるい。朝飯を作る気も起きず、朝マックに逃げようとしたら店が閉まっていて、仕方なくコンビニでハンバーガーを買って食った。そういう細かいところから、もう色々と崩れている感じがある。
ジム通いだけは惰性で続いているが、食事は雑になってきている。外食すればすぐ体重が増えると分かっているのに、コンビニで買い食いして済ませる。このまま行くとまずいな、という自覚だけはある。自覚はあるが、立て直す気力が追いついていない。仕事は繁忙期で、休むわけにもいかない。正月に向けてラストスパートだ、という空気もある。疲れているのは分かっているが、休む余地がない。この手詰まり感が、じわじわ効いてくる。
さて、何か語るべきことを語らねばならない。 最近よく考えるのは「物語持ち」というやつの厄介さだ。自分も一応、物語を抱えて生きている人間だと思っているが、物語持ちというのは二つの方向に引き裂かれる。自分の内側で物語を膨らませ、楽しむこと。もう一つは、それを他人に伝わる形に翻訳すること。この二つは似ているようで、まったく別の作業だ。
内側にこもった物語は、自分にとっては切実で意味がある。だが、他人にとってはほとんど価値がないことが多い。自分の中では自明でも、外に出した瞬間に意味が霧散する。Pixivを眺めていても、延々とオリジナルキャラを描き続け、内輪で完結した物語を積み上げている人をよく見かける。あれはあれで本人にとっては救いなのだろうが、他人には伝わらない。
ヘンリー・ダーガーのことを思い出す。内側に閉じこもり、物語を掘り続けると、原型的な何かに近づいていく気もする。だがそれは、結局のところ夢に近い。本人には切実でも、共有されなければ社会的な意味は持たない。個人的な物語は、思っているほど普遍的ではない。
では、プロの作品との違いは何か。たぶんそれは、翻訳への執念だ。自分の内側の物語を、他人が理解できる構造に組み替える労力。背景を削り、文脈を整え、普遍的な型に落とし込む。その過程には、他人への配慮やおもてなしが要る。ただ面白いだけでは足りない。
自分はそこまでやれているのか。正直、怪しい。内側の物語を膨らませるのは得意だが、それを外に向けて翻訳する作業は、いつも後回しになる。伝わらない物語を積み上げて、世界だけが大きくなる。その先に何が残るのか、時々分からなくなる。
結局のところ、他人に伝えたいなら、宣伝も含めてやるしかない。届ける努力を放棄した物語は、内省の道具でしかない。それ自体が悪いわけではないが、外に出すなら覚悟が要る。
難しい。だが、翻訳しない限り、物語は独り言で終わる。その事実だけは、たぶん間違っていない。