超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

慌てず自分の人生を考える哲学。

慌てず自分の人生を考える哲学。


朝の空気はまだ静かだけど、僕の頭は少し重たい。起き抜けに頭痛がする日があって、そのたびに薬を飲むかどうか迷う。薬に頼りすぎれば依存になるんじゃないかと心配になるけれど、今飲んでいるカロナールは精神科でもらったもので、依存性は低いと聞いている。市販薬よりはまだ安心できるとはいえ、それでも「これでいいのか」と考えてしまう。頭痛は僕にとって単なる体の痛みじゃなく、気分の落ち込みとも結びついているから余計に厄介だ。


どうやら僕は頭痛持ちで、天気が崩れるだけでもすぐ痛みが出る。少し疲れただけでも血管がきしむように頭が痛む。家系的に高血圧を抱えていることもあって、脳の血管が切れてそのまま終わり、なんてことも現実的に考えてしまう。だからこそ運動を少しずつでも続けて体を整えるようにしている。特別に長生きしたいとは思わないけれど、これまでの人生があまりにも荒れていたせいで、このまま早く死んでしまうと「苦労だけの人生」で終わる気がして、どこか割り切れない。せめて八十歳くらいまでは生きて、帳尻ぐらいは合わせたい。


ただ、人生の大半はコントロールできないことの方が多い。ここ数年の出来事を振り返ってみても、僕が何をしても動かせなかったことばかりだ。そんな時に思い出すのがニーバーの祈りの言葉だ。受け入れられるものを受け入れる強さ、変えられるものを変える賢さ、その違いを見分ける智慧。結局、人間にできるのはその三つの間で折り合いをつけることなんだろう。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。


それと重なるように響いてくるのがストア哲学だ。最近はエピクテトスセネカの言葉に触れながら、自分の心を整える方法を学んでいる。自分でコントロールできないものに悩んでも仕方がない。変えられるのは自分の態度や習慣、ものの見方だけだ。世界の動きは僕の意思とは無関係だけど、それをどう受け止めるかは僕自身に委ねられている。その視点に立つと、頭痛にしても「まあ仕方ない」と思える瞬間が出てくる。


特にまぁ、セネカの「卑しい者、才に乏しい者にも成功は訪れるが、人生の惨事や混乱に打ち勝てるのは偉大な人物の特質である」だとか、そういうストア哲学の言葉というのは自分向きだよなと思う。自分自身の不安や欲求を飼い慣らし、そして自分の習慣や行動をコントロールすることで、最終的に充実した生を送るというのは2000年前の哲学で完成していた考え方だ。


もちろん、心の持ちようを変えたからといって現実が思い通りになるわけじゃない。だからこそ大事なのは、出来事に対する捉え方と、それに合わせて自分の行動を調整することだ。日々の習慣を少しずつ整え、過ごしやすさを積み重ねる。その先にやっと「夢」と言えるものが実現する。僕にとっての自己啓発とは、その現実的な作業に近い。


実際、辛い時にはニーバーやセネカの言葉を読み返して自分を鼓舞するようにしている。哲学者たちの言葉は応急処置のように心を支えてくれる。現実は変えられなくても、心の持ち方ひとつで世界の色合いは変えられる。人間の意識の力とはそういうものだ。


だから僕は、どんなに頭痛に悩まされても、どんなに人生が思い通りにならなくても、心のコントロールだけは諦めたくない。人生はなるようにしかならない。でも、なるようになったその景色をどう受け止めるかは、自分の選択にかかっている。今日もまた、頭の重さを抱えながらそんなことを考えている。

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