超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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資本主義社会の魔の手についての考察。

資本主義社会の魔の手についての考察。


気力激低。何かしら嫌なことがあったという訳ではないが、思考の方でやな感じのぐるぐる思考が繰りかえさえており、気分を変えねばならぬかなというところである。


単純に週末だから疲れてるのだと思う。明日はまぁ、コメダでモーニングをしてきてその時にニュースレターでも書いてしまおうかなという気もする。生活の中で適度に楽しめることを配置しておかないと、心がミイラになってくる。


物事を楽しむ感性を鍛えておく必要性というのは高いなと感じる。依存性が高かったり、激しめの娯楽でしか自分の満足を満たせないような感じだと、それにどんどん耐性ができて強い刺激じゃないと満足できなくなる。こういうのは、普段の生活の中のちょっとしたことにでも興味関心を持つようにして、そこから満足を摂取できるようにしたら生活の楽しさが上がるんじゃないかと思う。


そういう風な思いつきを綴らせてもらったが、これを実際に具体的に行動に移すためにはどうしたらいいかというのは僕はよく知らない。でも、僕自身の生活を振り返ってみても、妙にストイックすぎるところがあるというか、安易な娯楽というのを拒絶するようなこだわりがあるように思うのである。


まず、僕は酒・タバコが嫌いである。昔はかなりのヘビースモーカーだった時期もあったのだが、禁煙外来に通って禁煙してしまった。それ以来、強度の嫌煙家であり、タバコの匂いがするだけでムカムカする。酒については、コロナ前は割と飲んでいた気がするが、コロナの後はばったりとやめた。今はなんとなく思うのだが、不安を誤魔化すために意識をぼやかす用途で酒を飲むのはお酒を作ってる人に失礼なことだと思うのだ。旅行に行った時に、ちょっと高めの地酒などを地域の酒屋で買い、帰ってきて嗜むようにチビチビと飲むという感じの酒の楽しみ方に変わった。


ソーシャルゲームやギャンブルについてもやらない。これはまぁ、僕がアプリエンジニアだからというのが理由かもしれない。アプリ開発においては認知科学や人間工学を利用して、そのアプリにどのようにユーザを依存させるのかというのを考えながらUI/UXを作成していく。こういう人間の依存性についての知識について知ってると、世の中のSNSアプリなどが如何に人間の依存性を利用してゲームやSNSにに縛られるように戦略を練られているのかというのがよく分かる。


SNS関係についてははてなブログには依存してるけど、最近はSNS関係は積極的に脱ソーシャルしようとしてる。これはちょっと前にも書いたことがあるかと思うけど、デジタル刺激はメンタルヘルスに悪影響である。ネットから情報を得ようと思うのであれば、RSSリーダーGoogleアラートのような自分でプルしてきてネットから情報を取得する仕組みを構築しておいて、向こうからアルゴリズムで押し付けられる情報は拒否した方がいいと思うのである。


この視点で世の中を眺めているとよく分かるのだが、社会にはユーザに習慣を作らせる依存性を利用した商品やサービスというのは溢れている。以前、「習慣の力」という本で読んで知ったのだが、歯磨き粉についてもあれはマーケティングで作られた商品だという。最初、歯磨き粉にはミントの成分が含まれていなかったのだけど、歯磨きの後のスッキリ感に依存させるために、人工的にメンソールのようなスースーする成分を含めたことで、爆発的に大ヒットしたとのことだという。それ以降、歯磨き粉には実際には必要がなくてもスースーする成分を加えるのが常識になってるとのことだ。


特に、近年であると人々は常にスマホを持ち歩いてデジタル刺激に晒されている。その中で、プッシュ通知をどのように配信してアプリをリマインドするかというのは、一つのジャンルとして論文まで書かれて徹底的に研究されてることである。商品を購入して、しばらく経った後に他のおすすめ商品をレコメンドする期間であるとか、そういうのは認知科学や心理学のテクニックを使って仮説を立て、ABテストなどで統計を取り最適化するというやり方をアプリメーカはやっている。


とにかくまぁ、資本主義は誘惑の多い世の中だ。大量生産大量消費で、ユーザの購買意欲や射倖心を煽って常に買い物をさせてないと社会が回らない。一つの商品だけだと消費者がすぐに飽きるから、常に商品開発を行い新製品を開発しまくる。それにより、商品や富が世の中を巡り、その循環で社会が成長していく。


そんな中で、資本家や権力者というのは、「理想的な消費マインド」というのをメディアやSNSを通じて消費者に刷り込むようになった。マーケティング会社は商品のペルソナにあった理想の消費者像を作り、それを広告や番組を通じて社会に大きく広める。社会の中で、「この生き方が素晴らしい」という理想像を作りそれぞれの人々を競争させて、その中で競うように商品を購入させるのである。


こういうところまで考えてみて、社会で共有されてる理想像に従って生きるのが大層バカらしくなった。ブランドものや高級品で着飾って自慢してるつもりの人でも、実際は奴隷が鎖を自慢してるようなものであり、権力者が作った作り物のヒエラルキーの中で勝った負けたの一喜一憂をしてるのである。


これらのことを必要以上に考えると世を拗ねることになる。ある程度、そういう見えない手に対して意識的である必要はあるけど、完全に資本主義から抜け出して生きるのも至難の技だろう。せめて、自分の依存してるものに自覚的であったり、本当にその商品が必要か一呼吸おいて考えることは必要だろう。

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