存在の不完全さと主観との構造のみで表現される世界観。
今日は哲学やら量子論やら色々と考えていた。
やっぱ僕は根が文系だから哲学でものを考えるな。でもハイゼンベルク不確定性原理から観測者問題に飛んで、そこからレヴィナスの他者論にたどり着いたりするから哲学物理学数学全部リンクしてると思うんだよね。
— ゆきにー@雑文書き (@yuki_20211) November 22, 2019
プラトン以降の真理はあんのかーみたいな西洋哲学の問がヘーゲルの弁証法経由でサルトルがアンガージュマンさせようとしたら構造主義のレヴィーストロースに否定されてデリダの脱構築でぶっ壊されたとかそういう認識。かなり認識が雑なので間を埋める哲学入門書とか探してる。
— ゆきにー@雑文書き (@yuki_20211) November 22, 2019
僕の好きな哲学書って、スピノザの「エチカ」の汎神論だったりアランの「幸福論」だったり、好きな思想体系ってプラグマティズム(実用主義)だったりするのよ。だから真理を求める方向性も数学的な厳密性ってまったくないの。哲学は文学だーという主張は甘んじて受け入れましょう。思想が向かうベクトルだけ決めといて、後は各個人が勝手に検証しとけー、みたいな乱暴な生き方でこれまでやってきている。
というわけで、僕はフラフラと哲学的なヨタを飛ばす。
最初のツイートで書いたことなんだけど、人類は知性の限界が来ちゃってるらしきことはいろんな法則で明らかみたいです。例えば数学で「ゲーデルの不完全性定理」、物理学で「ハイゼンベルクの不確定性原理」、哲学で「デリダの脱構築によるポストモダン」。簡単に一言でいうと、人間の認知には限界があって、世界を完璧に理論化することができないみたいです。
こりゃー物理学でいうとニュートン力学から始まって、アインシュタインの相対性理論にたどり着き、で、更に量子論でミクロな世界を探索しようとすると世界の根本たる素粒子って確率でしか表現できないものだったって感じなんですよ。どんどん人間の観測精度が高くなっていって、ミクロなものミクロなものと厳密さを深めていくと人間では認知できない法則で世界が動いてるっぽいてのが、哲学・数学・物理学で同時多発的に発見されちゃったんです。
どんだけ正確に事実を認識しようとしても、観測者の主観が入る限り正しい認識はできないらしい。と、いうか、観測者によって世界自体が形を変えちゃう。どんだけ客観的なロジックを組んで世界の本当の姿を明らかにしようとしても、それを認識するのが人間の主観である限り観測結果は歪む。極論すると、観測者が観測するたびに観測者を中心にして世界は新しく再構築されている。世界の本当の姿は誰にもわからない。
こっから先は僕自身の哲学だけど、この世界って多分、関係性の構造でしか表現できないものなんだと思う。レヴィナスの「他者論」というものがある。
どれだけ緻密に他者を観測しようとしてもその法則は分からなくて、他者と観測者という構造しか無いというのが結論です。どれだけ厳密に客観的に観測しようとしても観測者問題が絡む限り世界は形を変えるけど、最小限の「自分対他者」という構造だけは絶対に変わらない。
こういうヨタを考えて暇をつぶすのが好きなんです。原書を読むほど哲学するわけではないけど、哲学的な読み物は好き。たまにこういう事を考えて本を探したりする。今回はこの手の問題に関係する本を見つけたので後で読もうと思う。
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今日の徒然
今週もおしごとお疲れ様。花金は酒を飲みつつブログを書いている。今日は筋トレ行ったね。
最近は筋トレは変化がなくてえらく退屈だな。というか、自分の人生の方向がなんなのか見失いがちだよなーと思う。何をやって、何をやらないべきかちゃんと決めとくべきだよな。優先度低いことばっかに時間を掛けて、やるべきことの時間がどんどん過ぎていく。
とりあえず、明日は午前から起きて小説書こうと思います。じゃぁ、今日は短いけどまったねー☆