変えられるのは自分の行動だけ。
奪うよりも与えるほうがいい
性格が悪いことは言うべきでもないしやるべきでもないなと思った。人間というのは一貫性を尊ぶ生き物であるので、誰に見られていなくとも自分が知っているだけで「自分はこんな生き方をしている」というのを自分の行動を見て自己学習してしまうのであり、性格が悪いことをやってると自分の性格も悪くなってしまうのである。人間は自分が口に出しているだけで、本心と違っていても口で出してる言葉通りの人間になる。自戒せねば。
自尊心ってなんだろうなと思う。自分を尊ぶ心とあるが、自尊心を高めるために他の人を下げていると、結局、回り回って自分もろくな事にならないと思うのだよ。ゲーム理論のギバーとテイカーの話がある。
彼は世の中の人々を、受け取るだけの「テイカー」、もらえばお返しするバランス派の「マッチャー」、そして惜しみなく与える「ギバー」の3種類に分類し、どの人々が最も成功しているかを調べました。
最も成功してたのはどの人々なのでしょう?
人から受け取るばかりの、立ち回りのうまい「テイカー」でしょうか?
いいえ、違います。
最も成功していた人々は「ギバー」、つまり「人に与える」人々でした。
「最も多く受け取る人は、最も多く与えている」というのは真実でした。
では、逆に最も成功から遠いのは、どの人々だったでしょう?
実は、最も成功から遠いのは、どの職業をとっても、これも「ギバー」、つまり「人に与える」人々でした。
普通に考えると人を上手く利用できるテイカーの方が人より利益を得やすくなりそうだが、テイカーは周りの人に警戒されると利益を上げられなくなるのだ。ギバーは両極端で、人に無制限に与えるばかりのギバーだとテイカーの餌食にされて最も貧しくなる。だが、適切な判断力を持っているギバーだと、周りに与えることで協力者が増えていき、そのうちテイカーから守ってくれる協力者もできる。結果的に社会で大成功できる人はギバーであるのだ。
どうも、奪うよりも誰かに与える方が脳が幸せに感じる度合いが高いらしいんである。今日は特に書くべきことが思いつかないし、幸せのなり方などを考えておくか。
努力などのリソースをどう使うか?
僕自身の考え方としては、なにかを得るためには努力をするのは普通だと思ってる。自分が好きなのは自分の行動を改善するための工夫だ。僕は自分大好き人間なので、成功している他の人を見ても「スゲー人だなー、成功してら」ぐらいの感慨しか感じないんだけど、ちょっとは対抗意識でも感じたほうがいいのかもしれない。どうなんでしょうね? 僕は他人がこれぐらい頑張ってるんだから、自分も頑張らねばな!みたいな事は考えるけど、だるいからそれで自分の行動を変えようみたいな腰が重いんですよね。ちょっとはライバル意識でもあったほうがもうちょい成長するのかもしれない。
こういう記事があった。
自分に変えられるものは自分の行動だけだし、他人の行動を変えようとすることは使うエネルギーの割には得られるものが少ない。ニーバーの祈りという言葉がある。
神よ、
変えることのできないものを、
静穏に受け入れる力を与えてください。
そして、
変えるべきものを変える勇気と、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを、
与えて下さい。
こりゃ、村上春樹が言ってたことで自分自身の生き方の哲学にしていることでもあるんだけど、何か失敗したりとか落ち込んだりとかしたときにはフィジカルを鍛える。なんか、他人に言われたりだとかブチ切れたりだとかしたときは、そのストレスを走り込むなり筋トレなりに打ち込んで自分のフィジカルをいじめ抜いてやればストレスというのは晴れるのである。イライラしたりだとかそういう攻撃性を他人にぶつける前に、クソ重いダンベルでも持ち上げてりゃ攻撃性は薄れていくのであり体も育っていく。
他人に苛ついたとしてもどんだけ怒っても他人を変えることはできないし、ならばそれをモチベーションにして自分を鍛えた方がいい。フィジカルもメンタルも鍛え抜いて、自分の能力を高めて自分を怒らせた他人をぶっち抜けば気分爽快であろうな。僕は誰かにムカついたならばそのフラストレーションで自分を鍛えたほうが幸せになれると思うな。
まとめ
自分の座右の銘は「克己心」であるし、他人が何かをやってくれるのを期待するよりは、自分を鍛えて成長して自分でやった方が気持ちいいと考えている人間だ。あんまり人に頼れないのもそれはそれでどうかと思うけど、そういう所も思考力を使って工夫してやれる様な人間になりたいものだ。人は変えられないし、変えられるのは自分の行動だけだ。