超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


SPONSORED LINK

自分の納得を信じて牛のように生きる。

自分の納得を信じて牛のように生きる。


メンタル激ダル。ここの所、仕事を辞めたい衝動に何度となく襲われて、頭の中でどんな風に辞めることを告げて復讐するかなどのシミュレーションが繰り返されており、そのせいで感情を消耗してしまって非常にメンタル調子悪い。


なんかさー、だからこういう感情が必要な行動させられるのが非常に嫌なのである。僕の性格的にはなすべきことは淡々とこなして、感情の軋轢がない状態で行動したいのだけど、こういう感情を使う必要がある時も存在するものか。


まぁ、ブログを書き始めたら少し落ち着いてきたよ。仕事の辞意については、今週末にカウンセラーに今後の身の振り方を相談して、来週、会社の方で人事考課の面談があるからそちらで上司に会社を辞めたいことは告げておこうかなと思う。何も言わずにいきなり辞めてしまうと、プロジェクトの人員補充などの会社の方針もあるだろうし、周りの人に迷惑をかけてしまうだろう。徐々に辞める意思を相談しておくことで、何かしらの会社の方からの提案もあるかもしれないし、僕はあんまり他の人に迷惑をかける揉め方をしたりして跡を濁すやり方というのは好みではない。


なんか、個人的な意見としては、パワハラの対策もできてないのに障がい者雇用なんてやるんじゃねぇと思う所なのであるが、こういうのはそれとなーく人事の障がい者雇用の担当者に告げる程度にして、揉めないようにさっさとこの会社を去ってしまおうと思う。思うところは色々とあるし、特にストレッサーの同僚とはもう口も聞かないし近寄りたくもないのである。まぁ、あっちも仕事がバリバリとできるタイプの人間であるし、僕みたいな鈍臭いタイプとは合わないのであろう。あの人にもあの人なりの考えとか生活があるだろうし、さっさと離れて別の道を歩むようにしよう。


次の仕事はどうするかーであるが、こちらの方は転職エージェントを使ってできそうな仕事にひとまず面接を申し込もうと思う。できれば次の仕事が決まるまでは今の職場を離れないようにする。上段で話したことは、ひとまず仕事を辞めたい意思だけは伝えておいて、咄嗟にトラブルを起こして揉めないように交渉はしておこうということだ。


僕は僕の生活を守るために生きねばならぬし、そのためには働かねばならぬ。働く環境については、パワハラされたりして心理的安全性がない職場で我慢してたら、僕はいずれ精神をぶっ壊して死ぬ。ただでさえメンタル疾患持ちで心が弱い人間なのに、メンタルケアの方法などストレス対策を考えながらかろうじて生きることができてるだけなのに、ストレスフルな状況でなんとか耐え抜けと言われても無理である。今の自分でもなんとか働ける場所を探して、しっかりと働こうと思う。


ちょっと最近は心理状態が不安定だから、あんまりポジティブな話もできないよ。かといってネガティブな話をして心の内側に閉じこもっていると、自分の心痛ばかりがハウリングして却って辛くなる。


今日は適当になんか自分の心持ちを楽にするための話を引用してきて、ちょっとは前向きに生きるためにブログを書こうか。最近、ようやくこういう心の使い方をできるようになってきた方であるよ。感情の赴くままに行動するのではなく、自分の理性でもって思考や感情をコントロールするやり方というのは、仏教やストア哲学の考え方である。そういう、理性の使い方というのは最近ようやくわかってきた。


ちょっとこういう話が独学大全にあった。

1919(大正5)年8月21日、50歳の夏目漱石は、当時二〇代だった才能あふれる二人(芥川龍之介久米正雄)に、次のような激励の手紙を送っている

勉強をしますか。
何か書きますか。
君方は新時代の作家になる積でせう。
僕も其積であなた方の将来を見ています。
どうぞ偉くなつて下さい。
然し無闇にあせつてはいけません。
ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。

そして直後の8月24日に、もう一通。

牛になる事はどうしても必要です。
吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なりきれないです。
僕のような老猾なものでも、
只今牛と馬がつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。
あせっては不可ません。
頭を悪くしては不可ません。
根気づくでお出でなさい。
世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、
火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉ません。
うんうん死ぬ迄押すのです。
それ丈です。
決して相手を拵へてそれを押しちゃ不可ません。
相手はいくらでも後から後からと出てきます。
そうして我々を悩ませます。
牛は超然として押して行くのです。
何を押すかと聞くなら申します。
人間を押すのです。
文士を押すのではありません。



漱石のこの牛の例えは文学で身を立てるにはどうすれば良いかという風な話であるが、これは人生全般にも言えることであるなと感じた。


twitterなんぞのSNSで見える世の中などを見ていても感じるのだが、世間の評判を見てるとどうしてもすごいスピードで突っ走って成功している人などが評価されてるように思える。そして、それを見てる世間の人々も、成功者になるためにはどうすれば良いのかと工夫を凝らし、自分なりに効率やスピードを追求する方法を色々と考えている。


資本主義の社会の中では、人生も企業も全部効率性を求めてスピードが求められるような世の中であるが、そういうスピードで残せた成果というのは評価されても一瞬で、市場は一瞬にしてその人の人生を賭けて残した成果の意味は一瞬で消化して過ぎ去ってしまう。


世間のスピードと同じ速さで、成果主義で世の中を観測しているとスピードがある人が素晴らしいように思えるかもしれないけど、そういう世間のスピードのあるビーグルから降りた世界というのも実はあるのである。


乗り物を降りて徒歩で道を歩いてみたのなら、鳥の声が聞こえたり、みたことのない野草の花に気がついたりと、今までとは違う世界が見える。そんな風に、自分の理解をした上でしか見えない世界もある。


何か、周りの評価に振り回されてスピードを追求していって得た評価というのは、その人がスピードダウンしてしまうと忘れ去られてしまう。自分の納得を資源として、ひたすら自分の納得を追求し続けられる人というのは、牛のようにひたすらゆっくりと止まらずに歩み続けるものである。


無闇に焦らずに、牛のようにゆっくりと図々しく自分の信じる道を歩く。そういう生き方の人生の満足度は高そうである。

プライバシーポリシー免責事項