超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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荒れ狂った世の中だから正しい物語が必要なのだろうな。

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荒れ狂った世の中だから正しい物語が必要なのだろうな。


今日はコロナ以外を書きたい。最近、どこにいてもコロナの話ばかりなので気が滅入る。とはいえ、今、社会の関心も僕の関心もコロナ騒ぎのことなのでネタ的には美味しいのである。しかしながら、毎日コロナのことばかりを書いていると読んでいる方も疲れるでしょ? 僕自身、わりかし消耗してしまうところが大きい。というか、こんなデタラメな騒ぎの中で馬鹿騒ぎに同化してしまうと、心の中の声が聞こえなくなっていく気がする。


どうなんざんしょ? 僕は曲がりなりにもものを書く人なので、周りがどう思おうが自分の内面が最優先であるんです。別に人に好かれようが嫌われようがどうでもよくて、自分のルールがまず始めに来る。でも、嫁さんがいたりとかそういう第一に守る存在なども居たりして、変わってゆくのではないか?とも思うのですけどね。


こういう社会が荒廃していく今だからこそ物語の力というのは非常に重要だな、と思うのです。僕は絵も描くし、小説も書く人間なんだけど、最近は創作関係はさっぱりだな。だけど、こういう時期だから正しい物語の需要は非常に大きいだろうなと思う。こんな社会が荒廃し始めた時期は、拠り所になる物語が要る。それが正しい物語であればいいが、例えばオウム真理教の物語だったりだとか、そういう悪しき物語が社会に大きく広がってしまうと色んな人が狂ってしまい、場合によっては多くの人も死ぬ。


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さて本質的な部分に触れようか。オウム真理教は社会でどんな存在意義をもった組織だったのか? それは完全な悪として否定されるべきだったのか? まず、現代の社会では物質的に潤沢になったが心の不在が問題となっている。世間には一定数、内面に向き合って課題をクリアしないと生きていけない人がいるだ。そういった人達を救うのが哲学や宗教なのだが、日本にはそういった向きを否定しがちな文化がある。オウムは分かりやすい教義と実践的なヨーガのノウハウで、ある程度簡単に神秘体験まで到れる優秀な宗教だった。麻原彰晃が語る物語は社会から爪弾きにされている人々にとって正に理想だった。極めて粗雑な形ではあるが、サティアンなどの外部から断絶された形で理想郷を作り上げようとしていた。東大出身のエリートたちも、社会に出ても歯車として消耗させられるだけという、心の隙間にねじ込まれる形で麻原彰晃ユートピア論に賛同してしまったのだ。


現代の問題として、社会からはみ出してしまう人を救う正しい物語が少ないという事がある。インタビューで答えてくれた人たちは、幼少期から人生について考えていて答えが見いだせないという共通点があった。そこに麻原彰晃の悪しき物語が合致してしまったのである。彼らを社会につなぎとめておくだけの正しい物語が現代社会に無かったということである。村上さんは河合隼雄との対談でそれは家族であるという答えをだした。親や兄弟と繋がっている事ができたなら、新興宗教で奇矯な仲間意識でしか繋がれないということは無かっただろう。


また、正しい物語は現実の人間関係だけとは限らない。小説の一冊からでも心の救いを得られた、ということもあるだろう。村上さんはこのオウム・インタビュー連作とも言える「アンダーグラウンド」「約束された場所で」の後に「1Q84」を書いた。ここでは新興宗教が大きな役割を果たす。小説家である村上春樹の思考は、オウムが与えた社会へのインパクトに対するカウンターとして、自身の内面を掘り下げた形で「1Q84」を書いたのだろう。表現者はかくあらねばならないという彼らしい答えである。


ぶっちゃけ、僕は自分の書く物語によって社会を救おうみたいな大それた考えはないですけどね。僕が書いている物語というのは自分が読みたいものが世の中にないから、やむにやまれず自分の手で物語を書いているだけだし、しいて他人に読んでもらう必要性とかもあんまり考えてない。僕は自分の中にあるシーンやキャラクター造形などを具現化したいだけであって、それで承認欲求をどうにかしたいというのはあまり興味はない。いや、読んでもらえて感想を貰えたりしたら嬉しいけど、僕が書いているあれらは主に自分のための創作であって、他人にあんまりなんやかんや言われるのは好ましくない。


だから村上春樹とかの考え方がすげーなと思うのは、作品を世に問うて世の中の多くの人々の心を動かせる作品を書けるという事が前提な事なのよ。別に村上春樹だけに限らず世の中の職業作家というのは書いた作品がどの様に社会にインパクトを与えるのか考えながら書いている訳でしょ? ネットの片隅で勝手に文章をなぐり書きし続けている雑文書きの僕にとっては、そういう物書きの矜持みたいな心構えってどこか遠くにあるもののように思うんです。僕が書いている事は自分が書いていて気持ちよくなるための文章であって、誰かを変える覚悟なんてまったくないんです。


これは物書きとしての自分の弱点だなと思うところであって、たまにコメントやメールなどで感想などをもらうことがあるんだけど、それが良い内容であっても動揺するんです。どうなんだろう?とは思う。ブログで書く文章にしても誰かの目に触れる所で書いているのだから、極わずかでも誰かに読まれる可能性があるということだけど、僕はそのことにしてもあくまで自己中心的に自分のために書いている。


要するによくばりなんですよ。褒められたとしてもそれが本当の自分じゃない気がして、全面的に全存在を認めてもらわないと気がすまない尊大さがあるんです。だから、誰かの為に書くのが嫌なんです。要するにあれですよ、山月記の「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」ってやつですよ。でも、僕は李徴ほどの情熱もない。狂えるほどの才能もない。


だから、結局、斜めに世の中を眺めながらなんとなーくでエントリーを書いちゃうんです。長年書いてきたことで何も考えずに書けるようにはなったけど、これを繰り返して何の価値があるのかは分からない。こういう荒れ狂った社会情勢で書くような文章というのは冷笑的で心が乾く一方だ。なんか、こういう時代だからこその正しい物語が必要なのは僕みたいな人間かもしれぬ。そういう物語を読めば僕もまた書きたくなるだろう。

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