超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。

人生に必要なのは「コントロール感覚」。

人生に必要なのは「コントロール感覚」。


おはようございます。今日もブログを書いていこうと思う。最近、介護関係でまた色々と動きがありそうで、どうにも気分が落ち着かない。嫌な出来事があると、頭の中がモヤモヤと動き出して、そこに囚われ、体調まで崩してしまう。もう長年の癖みたいなもんだ。でも、ここ数年でようやく「気分と距離を取る」ことが少しずつできるようになってきた。いわばメタ認知の練習だ。「今、自分は動揺している」と一歩引いて観察できると、心の波に呑まれずに済む。たったそれだけのことが、驚くほど効くのだ。


ただ、それでも気分というやつは手強い。理屈では分かっていても、実際にその渦中にいるときは、まるでコントロール不能の生き物みたいに暴れ出す。そういう意味では、感情の扱い方を学ぶのに終わりはない。十代の頃から精神年齢なんてそう変わってないように感じることもある。でも、それでも「観察できるようになった自分」がいるだけで、確実に少しは成長しているんだろうと思う。成長というのは、外向きの成果じゃなくて、内側で自分をどう扱えるかに現れるんだ。


最近とくに思うのは、人生に必要なのは「コントロール感覚」だということ。状況を思い通りにすることではなく、自分の反応を選べる感覚。これは幸福感に直結している。たとえ牢獄の中にいたとしても、自分の思考や態度を自由に選べるなら、それは一種の自由だ。逆に、どんなに自由に見える立場でも、怒りや不安に支配されていたら、それは不自由だ。自由とは、外的な条件ではなく、内的な選択の問題なのだと思う。


そう考えると、哲学や宗教を学ぶ意味も見えてくる。仏教の教えを読んでいて感じるのは、あれは「心の使い方の技術書」だということだ。怒りや慢、執着といった心の癖を観察し、それに巻き込まれないための実践が説かれている。慈・悲・喜・捨の四つの心を養うことは、外界を操作するためではなく、自分の内側の自由を取り戻す訓練なのだ。心の制御ができると、世界の見え方が変わる。自由とは、心がどこに留まるかを自分で決められる状態のことなのだ。


最近は図書館でマーケティングや心理学の本を借りて読むことが多い。新しい知識を得ることは、自分の「自由の範囲」を広げる行為だと思う。知らないということは、可能性を奪われていることでもある。知ることで、考え、選び、行動できる幅が広がる。知識とは、心の可動域を拡張する力なのだ。学ぶことは、自由を取り戻すことでもある。


とはいえ、僕もサラリーマンとして働いていて、日々はルーチンに縛られている。でも、だからといって不自由だとは思わない。仕事をこなしつつ、帰宅後に小説を書き、休日に本を読み、コーヒーを淹れる。そうした時間の中で、自分の軸を保つことができれば、それで十分に自由だと思う。僕の理想は「晴耕雨読」の生活。社会の仕組みの中で生きながらも、心のどこかに自分の庭を持っているような生き方だ。


母のことも考える。老人ホームでの生活は制約が多く、時には不満もこぼすけれど、それでも彼女なりの誇りや意志を持って生きている。その姿を見ると、自由とは結局、どこでどう在るかの問題なんだと思う。人は二人いれば自由の奪い合いになる。完全な自由など存在しない。だからこそ、自分の心の中に「余白」を確保しておくことが大事なのだと思う。余白がある限り、人はまだ柔軟に生きていける。


人生は苦しいことが多いけれど、それでも「やってやるか」という気持ちがあれば、なんとかなる。与えられたカードで勝負するしかない。手札が悪くても、それを受け入れて最善を尽くすことが、生きるということだ。諦めとは、投げ出すことではなく、受け入れて歩き続けること。自分にできる範囲で納得のいく選択を重ねていけば、きっと満足できる死に方ができる。最近はそう考えるようになった。


結局のところ、自由とは「状況を選べないときに、態度を選ぶ力」なのかもしれない。


P.S. note書いたぜ〜


note.com

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