超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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毎日書くことというのは羅針盤のようなもの。

毎日書くことというのは羅針盤のようなもの。


今日も今日とてお昼休みにブログを書き始めるのである。最近始めた昼間にブログを書く習慣であるが、これは非常に良いね。昼間に集中してブログ執筆を完了させておくと、夜からの自分の時間が増える。睡眠時間も7時間は取れるようになったし、小説もちょこちょことだけど書く時間ができる。僕は時間のない人間であるし、こんな感じで隙間時間をうまく活用する方法を見つけて、豊かに生活をエンジョイしたいものだね。


さて、今日はブログの継続で面白い記事を見つけたから紹介させてもらおうかな。ネットを彷徨ってると次のシロクマ先生の記事を見つけた。


blog.tinect.jp


シロクマ先生ですら文才がないことに悩んでいるのであれば、僕なんざはもう決定的に致命的なぐらいに文才はないだろう。なんとなくで文章を書き綴ることに慣れすぎてるということもあるけども、狙って人の心を動かすような文章というのは書くことができない。なんとなくでぼんやりとした気持ちで書いてしまうのでその文に込める感情もぼんやりとしており、どうにも平凡な文章を書きがちである。


まぁ、それなりにネットで情報発信している年季だけは長いので、どんな風にしたらアテンションを集める文章を書くことができるのか?というコツはなんとなく分かってる。タイトルで感情を煽ったりだとか、過激な表現を使ったのならば、それに釣られて一緒になって怒りたい人たちが集まってくるようである。政治関係やフェミニズム関係の話題で、人通りが多い場所で極端な結論の文章を書けば、それなりの釣果を得ることができるだろう。


しかしまぁ、僕はある時から人の感情を逆撫でするような文章は封印しようと誓ったのである。過去の僕は人を煽るような文章を書いていたりだとか、はてブとかでも過激な論調で活動したりなどしていたのだけど、どうも、冷静になって周りを確認してみた時に、どうしようもなくつまらない人たちと一緒にモブになってしまってる事に気がついたのだ。


なんか、ネットの匿名文化圏でひたすら煽り文とか罵詈雑言ばっかりを書いてる人たちがいるじゃないですか? どうにも彼らには何かしら深みのある理由があってそれをやってる訳ではなく、単にストレスの吐口としてネットで悪口を言うことを習慣にしているだけなのだ。たいして深みのある人間ではないから何か小さな出来事でもすぐ怒るし、中身がないからどこかネットで聞き齧ってきたネットスラングを組み合わせた悪口しか言えない。


そういう人たちと付き合っていても自分自身にとって何のプラスにもならないなと気がついた。少し難しい社会問題に対して意見を断言することができたのならば、何かしら自分が賢くなったような錯覚に陥る。だが、実際のところ、自分の専門外のことに対して偉そうに一言述べるような行為というのは、実際にその現場で働いている人たちの邪魔でしかないのである。世の中には目の前に出てきた事柄に対して何でも上から目線で一言述べないと気が済まない一言居士というのは存外に多いものだ。そういう人は周りからは気付かれていて、遠ざけられてるものである。


僕は、何の深みもないその場限りの、浅い文章を書くのをやめようと思った。人間というのは、外から見てわかるのはその言動で表現されるものだけだ。小さなことに囚われてすぐに感情を爆発させている風な文章を書いているのであれば、周りの人からもそういう人として評価されるし、何より書いている自分自身が自分の文章に洗脳されて浅くなる。誰にも注目される必要はないから、じっくりと自分のこころから出てきた文章を書いていようと、僕は思ったのである。


ブログという媒体は、継続し続ければその人の歴史が目に見える形で蓄積していく。単に普段の日常の記録であれど、積み重ねれば人生の歴史が見える記録になる。ただの社会の中で普通に生きている一人の人間の歴史など、何が面白いのだろう?と思うかもしれないけど、その人が世界をどのように見ているかの視点であるとか、その時の感情の動きなど、丁寧に日常の記録を積み上げられたアーカイブは途轍もない人生の重みを持ち始める。


僕は何も才能を持ち合わせていない人間であるが、ブログを毎日書き続けることができる才能だけは与えられたらしい。日常の生活を送っていて気がついた気づきであるとか、社会の出来事を見て感じたこととか、そういうものを責任を持って自分の文章として蓄積し続けること。顔のない人たちが溢れるネットという海の上で、自分の責任で文章を綴り続けること。僕はこの行為に対して責任と誇りを持っている。


僕がこの世界で生きているということは何かしらの意味があるはずである。そして人間の生きる意味というのは、漫然と受動的に生きているだけでは得られないものだ。僕は毎日書き続けるという経験でもって自分が何のために生きるのかという意味を問い直している。毎日書くことというのは羅針盤のような役割を果たす。自分の意見をはっきりとさせて生きるというのは、存外に居心地の良いものですよ。

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