
文章を書くことは生きることにも繋がる。
昨日は飲み会だったので朝から疲れていた。午前中はカフェに行き、ニュースレターを書いて出した。先週は投稿することができなかったけど、今週は無事発行。
ニュースレターもありがたい読者がいるから続けられているという感じ。僕は書くことが娯楽であるけど、それは読んでくれる読者がいるから続いてる習慣という感じ。ブログでもそうであるけど、単なる独り言を書いてるだけでは書くことも続いていなかっただろう。
午後からは図書館に行き、先々週に借りた本の延長と新しい本の貸し出しを行なってきたところ。今回は小説技法の勉強本を借りてきた。
最近はわりかし本気で創作とか文章を書くことなどを頑張ってる感じである。今までの僕が書いてる文章というのは、勢いだけで思いつきを書き殴るばかりであるけど、それだとやはり良くないだろうというのは考えている。少なくとも、これで人に読ませるのであれば多少なりとも配慮のようなことは必要だよなと考える。
このところ、何周目の自省なのかは分からんのだが、相変わらず今でも僕は文章を書くときのエゴの割合というのに悩むのだ。このブログなんかで書かれていることは毎回、僕の自分語りばかりをダラダラと書き連ねることばかりをやってきているけど、それでも多少なりとも読んだ人が面白く感じるようにお役立ち成分を含めることを気をつけている。
これは何度も言ってることであるけど、エゴとお役立ちは7対3であると明言している。僕は今でもそれについてはあまり変えてないけど、どうも小説を執筆することを頑張って、その信念に揺らぎが生じてるのである。
僕は確かにエゴを7割も含めるような自分中心の文章を書いているけど、これは毎日更新のためである。ブログに書いてる文章はキーボードで書いたとしても1時間以内にサムネイル画像やおすすめ記事リンクなども含めて投稿しないといけない。このようにブログを毎日更新で素早く執筆するためには、「どんな風に読まれるのか?」などというのはぐだぐだと考えている暇はなく、基本的にフリーライティングで思いつきをダダダっとキーボードに叩きつける書き方をしないとならない。
そういう文章というのは誰かに読ませるための文章というよりは「書けるから書いている文章」である。自分の内面を言語化して整理するためにブログを書いているようなものであり、自分勝手なことを書いた文章を読んで「勝手に意味を読み取れ」というのは乱暴なことだ。
少なくとも、小説で書くような文章というのは、その文章全体を通じて読んだ人に何かしらの作者の意図する質感を与えないとならない。小説を好き勝手作者の思い通りに書いて、それを読んでもらい納得してもらうのは「俺は特別だから認めろ!」という傲慢さの表れのように思う。
僕はお役立ちは3であると言ってるけど、それはおもてなしとか思いやりの類だと思っている。自分が文章を書いてる時に自分のこの考えを他人が知った時にどう思うだろう? という思考の巡りをさせていないと、すぐに文章は独善に陥る。
独善的な文章というのは読めばすぐわかる。読んだ人の気持ちなどは考えておらず、自分に対する称賛ばかりを求める文章であったり、内面に自閉して読んでる人に背を向けている文章だ。これは他人のブログを読んでいてもたまに見かけるし、僕自身のブログを読み返してみても「これはひどい」と感じる独善的な文章はたくさんある。
小説でもブログでも、文章というのはコミュニケーションの一形態だ。他人に自分の書いた文章を読ませて納得してもらうには、論理であれ感性であれ、他人の共感に導くような仕組みを作らないといけない。また、それは読者をコントロールして作者の思い通りに動かすような邪悪な考えというのを持つのではなく、自分が知ってる情報を分け与えて読者にも考えさせるようなやり方でなくてはならない。
僕は小説でもブログでも、そういう読んだ人が何かを考えたくなるような文章を書けないか? などと考えたりするのである。僕は長年ブログを書き続けてきたので、多少は「書ける方」の人間であるけど、その道というのはどうやら人間的な完成であるとかその辺りの高い山登りのような要素まで含まれてるようであり、一筋縄では行かないようなのだ。
文章道というのは生きる道にも繋がる。それは決して大袈裟な言葉でもないように思う。ブログのような毎日書く文章には、確実にその人の人生に対する考え方であるとかパーソナリティが現れる。どうも、最近は小説執筆など文章を書くことにこだわるようになって、そういうことが見えてきた。
果たしてまぁ、死ぬまでに僕が自分自身も納得できる文章を書けるようになるかは分からんけどな。