超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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人と比較をしていては幸せになれないよ。

人と比較をしていては幸せになれないよ。


今日は午前中は持病の定期的な診察のための病院受診だった。この辺りは慣れた物であり、サクッと病院に行って、先生と軽く近況を話して、薬をもらって帰った。


今日は病院受診のために半休をもらっており、午前中はそれのことを色々やった感じ。変わったカフェが出来ていたので、昼飯はそちらで食べて、午後からは出勤して普通に仕事である。


僕は病気を持ってるけどメンヘラではないというか、そんな感じのブログのキャラ作りを意図的にやってる所がある。なんというか、基本的に自己憐憫が嫌いであり、無駄だと思うからだ。


他の人の個人ブログを読むときに、メンヘラ系のブログを読むときにどんな風に他人は考えているのかと、想像する。おそらく、病気系のブログを読む人は、その人も病気を持ってたりなどして、自分の状態と比較するために読むんだと思うんである。


別にその事自体を咎めたてる気はしないのだが、僕も類似する事をずっと繰り返していて感じた事は、どうしようもない虚しさだった。他人と自分を比較しても、自分の苦しさというのは楽にならないし、むしろ一時的な気休めのあとには不毛な気分ばかりが残るのである。


僕は気がついてしまったのであるが、他人と自分を比較するのは、社会的な動物である人間のサガであるが、それはメンタルヘルスには悪影響である。ある時までは人と比較をして競争をする事が、自分をドライブさせるモチベーションになるが、加齢や病気などで踏ん張りが効かなくなった後は、その感情は捨てた方が良い。


これは人間にとって、幸せとはどういう事なのかと考察をしてみると気がつく事なのであるが、他人と競争をして「相対的な幸せ」を追い求める事にはキリがない。金銭的な多寡で他人と競い合ってみたり、肩書きにより上下関係を比較する事がアイデンティティになってる人もいる。しかしこの相対的な幸せは随分と脆い物である。


「人生万事塞翁が馬」だとか「禍福は糾える縄の如し」というのは故事成語などもあるけど、仏教で言うところの「諸行無常」というのはマジである。どれだけ運に恵まれて成功者と言われる人であろうとも、一発のスキャンダルで台無しになることもある。逆にどれだけ不幸な人生を歩んできた人でも、なにか一つ自分の生きるよすがという物があれば、それを心の支えにして幸せに生きる事が出来る。


僕は思うのであるが、他人と比較をする癖というのは、人間が持っているハマりやすい認知バイアスだと思うのである。人と比較をしてみて、自分は優れているとか劣っていると認識してしまうけど、実際のところそれは現実とは何も関係がない妄想である。


僕自身、若い頃というのはバリバリとすごい勢いで仕事をしてたものであるけど、そういう無理は続かない。うつ病やら統合失調症みたいなメンタル疾患を患って、あっという間に他の人と比べてパフォーマンスが出せないような体になってしまった。これは近年でこそ、働き方改革で長期的にストレスを溜めずにサステナブルに働き続けることが重視されるようになったが、就職氷河期の僕らの頃にはそんな概念がなかった。


人と自分の彼我の差なんてものは、ほんと紙一重のものである。人間という同じ種族である以上、そのパフォーマンスというのは多少の差はあるけど、どれだけ優れた人でも逆に劣った人でも大した差はない。それが大きく差がついてるように見えるのは、周りの人の評価であったりとかブランド的なものであるけど、それは人間の意識が作り出した虚構のまぼろしのようなものである。


こういう他人と自分を比較しているものというのが、単なる物語の虚構でしかないと気がつくのが一つのキーポイントかもしれない。実際、成功者が身につけているステータスというのは、それ自体、大した価値があるものではなく、そこに対して他者の評価であるとかブランドのようなものが付加されているから価値があるというストーリーがあるのだ。


人は、みんなが価値があるとありがたがっているものをみんなで崇拝して、それを価値があるものとして物々交換をしたりする。貨幣なんてものはまさしくそれが目的で生み出された発明であり、みんなの崇拝の度合いを数値としてパラメータ化するための物差しである。


人々の崇拝を集めて、それでさまざまな価値のあるとされるストーリーを身に纏って、そうやって成功者になったつもりの気分にはなれるが、気分だけである。実際、どれだけ成功しようが自分の内観で感じる自分自身というのはそのままであり、周りから喝采されようとも、内面は昔の弱い自分自身のままだ。


僕がこういう現象に対して出せる処方箋はニーチェの言葉である。

「なぜ生きるか」を知っている者は、ほとんど、あらゆる「いかに生きるか」に耐えるのだ。


ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」の中で語った言葉であるが、自分が生きる主体性というのを持たない幸せというのはまぼろしや妄想の類である。こういう自分の生きる理由というのは人それぞれであるし、自分の人生の経験の中で見つけていくものであるが、僕はひとまず「お役に立てれば、よし」ということを生きる理由にしている。これを読んでる人も、自分の内面を探ってみて生きる理由を探してみるといいだろう。

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