超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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ブログなんて承認欲求の最終集積所みたいなもんだ。

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最近、元SPEEDの上原多香子とか斉藤由貴とか雨上がりの宮迫とか不倫話多いじゃん?だから僕も不倫でなにか一席ぶたせてもらおうかと思ったんだけどさ、考えてみたら別に結婚してるでもなし、長年付き合ってる彼女がいるでもない。僕がこういう他人の色恋沙汰で偉そうなこと言えるわけねーなと分かったんですよ。こういうので「不倫は死刑」みたいな事を書いたやつが童貞だと痛さ120%増しぐらいでしょ?いや、別に童貞って訳でもないけどさ、本格的に女と付き合っていた時期って5年ぐらいはブランク開いてる。「春日のここ空いてますよ」的な事をほざいて軽く女の引き笑いを取るぐらいなら良いんだけどさ、抗精神病薬の副作用で性欲わかなくなっちゃったんだよね。実はEDなのよ。ソロプレイは行けるが実戦は風俗でも無理っぽい。重すぎてドンびく音が聞こえるが仕方あるまい。


こういう状態だからさ、他人の恋人を奪いたい情熱ってのはどこから沸くのかな?みたいな老人みたいな事を考えちゃうんだよね。だけど、魅力的な女ってのは多分違う男にもに走る可能性も有るんじゃないかなとは思うんだよ。そういうじゃじゃ馬の手綱を捌いて乗りこなすのがいい男の条件かなとも思う。だが、結婚してるのに妻が不倫に走った場合は、探偵だろうがなんだろうが使って証拠を集めた上で間男ともども型に嵌めるだろうな。結婚ってのは契約であって、違約すればペナルティがあるのは当然だ。そういうことを考えずに結婚のカードを切る覚悟が甘いやつは男女ともに多いと思われる。鬼女板で「伝説の92」と呼ばれるレジェント級のバカ女がいる。参考までにリンクを張っておこう。


【伝説の92】「あの・・・女なのに慰謝料払うんですか・・・?」 | 鬼女速跡地


まあ、こんなのと結婚したらタダの人的災害だと思うんだけどさ、「小悪魔的な魅力」ってのはこういうちょっと頭の悪い女が漂わせているもんじゃないかと思うんだよね。遊びで付き合う分にはこういうやつは悪い物件でもないのよ。だから結婚もできて不倫も出来るぐらいに男が寄ってくる訳であって、傍から見てる分には男はちょっかい出したくなるようなスキがあるんだと思う。しかしまぁ、こんなやつと結婚すると一生モンのPTSD作られて、それこそホンモンのEDなっちまうだろうけどな。


ま、良いのさ、今日の本題はちょろっと承認欲求について語らせていただきたい。


言っちゃうと僕は承認欲求のもとでブログやら小説執筆やらをやっているんだが、それほど実際の承認を受けなくても執筆活動自体に問題がない。これは意識的に自分へのレスポンスを無視することで至った境地であり、あんまりブロガーとかワナビとしての心境としては良いものでもない。


何が悪いって、他人の良い評価を良いと思えなくなるんである。他人の好意を信じられない状態といえば分かるだろうか?


それだけじゃなくて創作意欲もこの状態だと低い。他人がすっげえ労力をかけて作ったであろう小説やブログのエントリーを淡々と「あぁこの程度か」みたいな消費の仕方をしてしまって、そこから燃え立つ情熱がない。氷菓の主人公の折木奉太郎くんみたいな感じでなんでも受け身なのよ。どんな衝撃であっても受け流すために生身の自分を隠してしまって、そこから創作意欲をドライブする情熱がない。自分の作品ですら第三者のメタ視点で酷評をしてしまうんである。こんなやつは創作者じゃない。


承認欲求について気になったから、承認欲求をキーワードにして過去のブクマを漁ってみた。


僕は他人に対しても自分に対しても承認欲求に対して冷笑的だから下記の文章が気になった。

他人の承認欲求を笑う人は、自分もアウトプットすることができなくなる。
笑われるのが怖くなるからだ。
アウトプットができない人間は、笑われない代わりに、評価されることもない。だから他人の承認欲求を笑う人は、自分の承認欲求も満たせない。永遠に、満たせない。

なぜ承認欲求と自己愛が問題になるのか? - デマこい!


だけど、承認欲求というやつは欲求の中でも不要な部類に属するもんじゃないかと思う。自分を引き受けた人は承認欲求なんかには悩まされないのではないかとも思う。

 僕がこの年齢になって感じるようになったのは、「自分は何者にもなれないのだ」と知ってから、本当の「人生」がはじまる、ということなんですよ。
 僕が村上春樹さんの作品の登場人物に惹かれるのと同時に、「浮世離れしている」と批判したくなるのは、彼らはみんな「何者でもないけれど、自分のやるべきことを、淡々とやっている人」であり、「それを自分で受け入れている人間」だからなのです。


 『コクリコ坂から』という映画を観ながら考えていたのだけれども、結局のところ、大部分の「何者にもなれない人間」にとって根源的な「しあわせ」みたいなものって、「おいしい朝ご飯を食べて、おひさまの香りがするふんわりとした布団で寝ること」に尽きるのではないだろうか。
 「何者か」であろうとするより、「生物としての根源的な喜び」を積み重ねていくほうが、「正しい」のかもしれない。
 何も好きなものがなく、感情移入することもなく、ひたすら「生物として生き続けること」に集中できれば、ラクになるよねきっと。
 いや、それほど味気ないこともないのかな……


「きっと何者にもなれない」あなたへ - 琥珀色の戯言


fujiponさんのこの言説を見た時に「自分には無理だな」って感想が湧いた。ナマの人間というものは普通に生きてるだけで愛憎壊苦、カルマが巡りまくってるもんで、「何者にも成れないことを受け入れた」ってのはすなわち悟っちまったって解釈で良いと思う。マズロー自己実現クラスの難しさじゃなかろうか。

アドラー心理学では承認欲求について次のように述べる。*1

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれない

逆説的ではあるが、認められたい人ほど認められず、評価を気にしない人ほど認められる結果となる。

「承認欲求」を必要としない人ほど、逆に他者から承認され、それを求める人ほど孤立してしまう。


人間関係とは誠に皮肉なものだ。


「承認欲求の強い人」は認められず、逆に「承認欲求のない人」ほど評価されるという皮肉。 | Books&Apps


このぐらいが僕でも理解可能な路線かなとおもう。承認欲求バリバリの奴は地道な努力の積み重ねをすっ飛ばして他人の評価ばかりを求めがちだ。本物のスーパースターってのはそういう所に評価がない。目的意識が自分の内面に有る奴はレベルが違う。イチローfacebookのイイねを気にしてルーティンを変えるかね? 承認欲求だけでドライブさせずに自分の目的意識を育てるべきさ。

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