超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


SPONSORED LINK

個人の努力の問題というよりは人の価値を軽んずる社会の問題かと。

f:id:yuki_2021:20200507220347j:plain

個人の努力の問題というよりは人の価値を軽んずる社会の問題かと。


2ch元管理人のひろゆきがこの様な記事を書いていた。


toyokeizai.net

とにかくがむしゃらに頑張るとか、無理をどうにか通そうというのは、そもそも「負け」が確定している中での努力なので、そこは早々に諦めて、さっさと別の勝利条件をそろえたほうがいいんじゃないでしょうか。

僕はそう考えるほうなのですが、自分の能力に自信がある人ほど、とっくに詰んでいる盤面をひっくり返せると思いがちです。

そう考えると、重要なのは個人が優秀かどうか、どれだけ努力できるかどうかではなくて、いかに勝てる波に乗れるかどうかだと思います。

例えば僕は、たまたまプログラミングに出会ったときに、「これは会社に出勤しなくていいタイプの仕事だ」と直感して続けました。結果、今ではだいぶお金が入ってくるようになっています。

でも、もし僕が編み物業界でむちゃくちゃ努力して、「編み物の達人」みたいになっても、今の収入には及ばないでしょう。

つまり、僕が現在、たくさんお金を稼げているのは、僕という個人が優秀で努力家だからではなくて、1つ大きな要因として、ITという波に乗ったからにすぎない。個人が優秀かどうか、どれだけ努力できるかどうかは二の次なのです。

もちろん、編み物が大好きで、努力もまったく苦にならなくて、頑張って能力を磨いて食えるようになれれば幸せ、というなら最高ですが、しっかりお金を稼ぎたいのなら、僕だったら編み物は選ばないよね、という話です。

極端な例を出せば、経済的に恵まれている日本に生まれるのと、内戦が絶えない国に生まれるのとでは、人生のスタートラインがまったく違いますよね。

貧しい国に生まれた人は気の毒だし、まず先進国がなんとかすべき悲しい現実ですが、ともかく、個人の努力だけでどうにかしようとすることだけが問題の解決方法じゃないと思うわけです。

でも、最近の日本って、「努力は必ず報われる」とかいうパワーワードに縛られて、努力ではどうにもならん世界で、努力を強いられて苦しい思いをしている人が多い気がします。

いっそ僕みたいに、主人公キャラとしての自分の能力値は見切ったらどうでしょうか。「自分の努力スキル」には頼らないようにしたほうが、だいぶラクに生きられるようになりますよ。


僕はわりかしひろゆきの事は嫌いじゃないんですよ。ずる賢いではあるけど発想だけでインターネットの一時代を築き上げてしまった人物ではあるなーと思う。


さて、ひろゆきは努力を無駄だと切り捨ててるんだけど、こりゃ、ずいぶんと冷笑的で冷たい考え方だなー。人間は生まれた立場や運でその後の人生が決まるので無駄な努力はやめなさいみたいな事を言っている。別に僕も人生を30数年以上生きてるんで、そういう側面があるのは否定しないけど、こうやって人の努力を全否定する様な事は言えない。これは自分の努力のリソースを如何に割り振るかでの考え方なら正しいんだけど、これを社会全体に適応させようとする筋の悪さみたいのを感じた。そういう努力のリソースの割り振り方の考え方ではふろむだ氏の著書『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』が勉強になる。


www.ituki-yu2.net


人は誰しも自分の努力を過大評価して他人の努力は過小評価するバイアスがある。でもって、社会的弱者の人たちに関しては「あの人達があの立場なのは努力が足りないからだ」みたいな感じでみんな見下しながら上から目線で説教したがるのも太古の昔からよくある傾向であろう。別にそういう理由もあるかもしれないかなーとも思うんだけどね。「ヤミ金ウシジマくん」を読んでると、多重債務者というのはそうなるべくしてなっているという風な、自身の自堕落さだったり傲慢さだったりがあったりする。だけど、その一方だけで人間の価値を決めつけるのも不味いであろう。


人間の考え方やスペックなどは努力の他に、いい環境に巡り会える運も大きく左右する。ひろゆきが言ってる事だけど、我々は全世界という視点で考えるならば現代日本に生まれたというだけで勝ち組ではある。だけど、現代日本でも生活保護を受けるような貧困層に落ちる人や水商売や風俗業で自分を切り売りしながらじゃないと暮らしていけない様な人たちもいる。そういう人たちがその境遇にいる理由を運や考え方だけで切り捨てて、個人の努力を無駄だと切り捨ててしまうのもまた冷淡すぎやしないか?と僕は思うのである。


また、最近だとこういう生活困窮者とかから「無敵の人」と呼ばれるような、テロリズムを使ってでも社会を混乱に陥れたいと考えたりするアナーキストが生まれたりするのだ。秋葉原通り魔事件の加藤智大のような人物がいたりするけど、こういう無敵の人を生み出すのはこういうひろゆきの言ってるような勝てば官軍負ければ賊軍みたいな、個人の価値を軽んずる社会の冷淡さじゃないかなー?みたいな感じの事を僕は思うのである。


これは社会全体のセーフティネットの問題だったりもして、そういう社会から零れてしまう人たちを救済する手段が必要だということもあるだろう。最近だとコロナ騒ぎが起こした奇貨としてベーシックインカムが実現可能な社会政策として議題に上り始めたとかそういう事もあるけど、社会全体の考え方の問題もあるだろうな。


別に社会全体が努力することをお題目みたいに唱える息苦しさもあるかとは思うが、そうなってる原因は成長成功絶対主義みたいな資本主義のデメリットの方もあるであろう。社会全体に余裕が有る時期であればおちこぼれた人たちを大目に見て居場所を保証することもできたかもしれないが、まさしく今のように社会全体のリソースが絶対的に不足し始める時代では社会的弱者は徹底的に排除しようとかそういう政府とか政策が生み出されるぞ。だからまぁ、なんというか人を出し抜いて勝利することが絶対みたいな価値観をどうにかして薄めるのが先決な気がするんだけど、それを努力という切り口で語るのも筋が悪いんじゃないかなー?と思った。

プライバシーポリシー免責事項