超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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表現するということは見知らぬ誰かを踏みにじる覚悟がいる。

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さて、今日もブログを開始するか。今週のお題はあいかわらず「わたしの自立」か。一度書いたしなぁ。もう一度書いても良いのではあるが、正直言って一度書いたお題を2度も3度も繰り返して書くのはなんとなく気がひけるよね。特にネタがあるわけでもないから適当にお題スロットを回して今日の前置きは決めようかな。


お題「朝ごはん」


僕の朝ごはんはコンビニご飯ですね。大体、糖質制限しているので炭水化物の多いものは食べられないんですよ。だから、ローソンでブランパンを購入して食べているのである。ブランパンってわかります? 糖質がカットされているパンです。こういうやつだ。


diamond.jp


朝はブランパンを2種類とウィルキンソン炭酸水のレモンを購入して、バスを待ちながら食べている。平日はこの様にブランパンだけを食べるようにしている。


ブランパンはさして美味しいわけでもないが、他に糖質制限の食事でお手軽に取れるものがあるわけではないのでよく食べている。難点があるとしたらローソンでしか購入できないことだ。沖縄にはコンビニはローソンとファミマの2種類があるのであるが、ファミマではこの手の糖質制限でも食べられる食品というのは取り扱ってないのである。最近、那覇バスターミナルでバスを乗り換えるようになったじゃないですか? 今まではバス停留所の前にローソンがあったから食事には困らなかったのだけど、この那覇バスターミナルではファミマしか無いのである。一応、ファミマにもサラダチキンが置かれているのではあるが、サラダチキンってボディビルダーがトレーニング中に食べるものって感じで、常食するにはいまいち重い。


一番いいのは那覇バスターミナルで糖質制限食中の人でもお手軽に食事が取れるレストランなんぞができないか?って事だろうね。糖質制限中の人が外食で食べることが出来る場所は限られてくる。僕が知っている限りは2箇所で「すき家」と「大戸屋」だ。


すき家」にはご飯の変わりに豆腐を使った「牛丼ライト」とこんにゃく麺をつかった「ロカボ牛麺」がある。糖質制限食を専門的に扱ってる外食チェーン店はすき家が唯一ぐらいである。休日等に車が使えるときはひとまずすき家で朝食を取ることにしている。糖質制限のためにメニューが用意されているから迷う必要がないからだ。糖質制限中の外食としては第一候補はすき家だ。


第一候補がすき家だとすると次点で大戸屋である。大戸屋糖質制限のためのメニューを置いているわけではないが、定食メニューではご飯を抜いて単品で注文することが出来る。これでおかずのみを注文して豆腐サラダを頼めば、まぁひとまず糖質制限用メニューとしての体裁が整う。どっちかというとすき家よりも大戸屋の方が美味しいのではあるけど、おかずのみのメニューの中にも糖質の多い食材を使ったメニューがあるから要注意だ。じゃがいもが多く入った鍋や黒酢あんかけのような糖質が多いメニューは多分、あんまりよろしくない。でも、外食の選択肢の一つとしてはありである。


外で食べるときはすき家大戸屋があればそっちに入るけど、両方共なければローソンを探してブランパンを購入して食べている。別にストイックな食事をしたいとは思ってないけど、糖質制限に慣れてしまうと普通の食事は重くてな。こういう食習慣にならざるをえない。


さ、適当な前置きだったけど結構書いてしまった。現在1528文字。残り500文字程度か。今日はなんか自省的なことを考えているのでそれについて書こうかなと思う。




こういう事を考えてしまった。僕はdisというか皮肉めいた事をこのブログでもtwitterでも呟いていたりするのだけど、出来ることならば誰かを傷つけるようなことを書くのはやめたいなと考えてしまうのである。確か山田ズーニーさんが著作の「理解という名の愛が欲しい」で書いていたと思うけど、誰かから引き受けたストレスを自分よりもさらに弱い人に押し付けるようにして回り回って弱い人を傷つけているという事が書かれていたんだけど、優しい人は体を犠牲にしてでもそのストレスを引き受ける。


ブルーハーツのTRAIN-TRAINの歌詞で「弱き者が夕暮れ更に弱き者を叩き」という風に歌っているが、そういう事はやめたほうがいいだろうなと思うのである。人間はにわとりでもなし、際限ないマウンティング競争というのはプライドがある人間にはふさわしくないと思うのだ。


だが、ちょっと気弱になってこういう事を書いてはいるけど、すこし反省して自分を許してしまうとまたtwitterなんぞで誰かを傷つける情報をシェアし始めると思うのだ。僕の周辺にはそういう情報が満ち溢れており、見知らぬ誰かに配慮するためには情報発信を完全に止めないといけないのだ。


だから、まぁ、僕が出来ることといったら誰かを傷つけたとしてもその責任を引き受ける事ぐらいなんだろうなと思う。僕は覚悟を持って刃を振るうのだろう。無自覚に何も考えず誰かの自尊心を踏みにじるぐらいならば、誰かを踏み台にしているという自覚は持ちながら表現は続けたほうが良い。


表現をするというのは何かを選ぶことなんだけど、選ばれなかった何かを持っている人から非難されることもある。なので、表現者であるためには責任感が要るんだろうな。誰かを傷つける事をおそれて萎縮してしまうと何も書けなくなる。表現するということは見知らぬ誰かを踏みにじる覚悟がいる。一つのものを選ぶと選ばれなかった無数の何かが生まれる。せめて、選ばないものに対しても自覚的であるぐらいしか責任を保つ方法はないだろう。


しなやかに憂世を生きるためのマインドセット。 - 超メモ帳(Web式)@復活
本当に書きたかった事は書いているうちにいつか見つかるもんなんだと思ってる。 - 超メモ帳(Web式)@復活
山田ズーニー著『理解という名の愛がほしい。』を読んで。 - 超メモ帳(Web式)@復活

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