超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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旅から帰る車窓を眺めて考えることなど。

旅から帰る車窓を眺めて考えることなど。


旅から帰る新幹線の中でこれを書いている。どうも上手くネットワークにつながる感じではないので、エディターにひとまず文章のみを書いておき、後ほどネットワークがつながるようになればはてなブログにアップするような感じになるかと思う。


のんびりと旅をしてきて、普段の生活の中では見られないものを見て、美味しい海と山の幸を食べて、温泉に浸かって疲れを癒して旅の帰路についている。ほどよく体は疲れているが、これもまた来週あたりで普段の生活に元通りになっていくだろう。


このところ、僕はどうもよく分からない不定愁訴に悩まされている。オフィスで午前中に働いている時とか、夕方に会社から帰る時などに気分が妙に不安定になってることが良くあるのである。とくに何かネガティブなことが発生してるとか、ぐるぐる思考を拗らせてるということではないのだが、なぜか情緒だけがおかしな感じで不安感を訴えておりそれで調子を崩してることが良くある。


なんか最近はずいぶんと無意識を拗らせてる状態であるらしく、夢見もあんまり良くない。だからこそ旅行に出掛けてみて環境をちょっと変えて過ごしてみて、それで様子を見てみようと考えてもいるのだけど、こういうのは1か月ばかし温泉宿にでも長逗留してみないと分からんことなのかもしれないな。


気鬱の悩みは少しは晴れたような気がする。旅行の最中は仕事のことを考えることもなく、とにかく目に映る変わったものを楽しむのに精一杯であった。寝る場所や過ごす場所を変えてみることでまた、自分の思考に映るイメージというのも変わるものであり、ちょっとはいつもの不定愁訴にも良い効能があれば良いけどなと思うところである。


ひとまず今は、沖縄の自宅に辿り着き、お留守番をしてくれた大五郎さんにおやつを与えることしか考えてない。うちには飼い猫の大五郎さんがいるので、そこまで長くの旅行をすることは難しい。一応、家には母親もいることであるけど、大五郎さんは自分にかなり依存をしているので、自分が長く家を空けすぎるとストレスを溜めてしまいそうだ。旅行はせいぜい2泊3日程度の短期滞在に限られてしまう。


どうも、旅先で変わりゆく車窓の風景を眺めながらぼんやりと過ごしている時こそが、生きているなという実感を感じることがある。僕は兎角ルーチンワークというのにこだわり続けるタイプであるけども、こうやって普段とは違う行動パターンで生活をしてみた時は、強烈に人生の不確実性というのを実感するのである。僕はたまたま流されてきた環境で、毎日同じようなことをしながら生活を続けているけども、ちょっといつもとは違う環境で過ごしてみることで自分の普段の考えとは違う側面を見ることができるような気がするのである。


普段の生活というのは、同じような繰り返しのルーチンが続いていく生活であり、その中で無意識にストレスが降り積もっていく。気がついた時にはコントロールできないぐらいに膨大になってしまったその力に振り回され、その場しのぎの暴飲暴食などでしかストレスを解消することができないのである。


もうちょっと上手く生活の中でストレスを解放する方法も見つけねばならぬなと思うのであるが、どうも日々の生活というのは同じループであり、その渦の中に巻き込まれている時には同じ考え方しかできないのである。少しは普段の環境から離れてみることで、外側から普段の生活を眺めることができて問題点の箇所にも気がつくことができるかもしれない。


やはりどうだろう、内省的になって普段の生活を振り返ってみると、自分自身の力で普段の生活を縛り付けてしまい、いつもベキネバでルールばかりを決めつけてる自分に気がつくところがある。なぜかいつも他人の顔色ばかりを窺ってしまい、自分自身のやりたいことを封印している自分に気がつくことができる。


僕は、自分勝手に行動しているように見えるけど、実際のところ他人の目を気にしてしまう気にしいのところがあり、格好をつけて自分の行動を歪めているところがある。それでいて自分のエゴを抑えることもできずに、その両ばさみの中でストレスを溜めてることが多いのだろう。


僕がどれだけストレスを溜めないように一人だけの生活を望んだとしても、結局、人というのは社会的な生き物であり、社会的な繋がりの中でしか生きられない。孤高な生き方というのは美しいかもしれないが、デジタル技術が発達した現代社会の中でも世の中を支配しているのは人々の繋がりの力であり、自分一人だけでこの世界で生きていくことはできない。


車窓から見えてくる景色は郊外の景色になってきた。こうやって移り変わる景色を眺めていると、自分が気にしている人々の視線というのも何も普遍的な決まったルールなどはなく、流れ去っていくものでありその時だけの条件でしかないのだろうなと気づく。


人生の中には縛られるべきルールなどはなくて、そのときどきの条件に上手くハマれることができる人が優れていると褒められてるだけなのだろうなと思う。自然の姿や静かな時の流れの中では、そんなことを気にしている小さな自分の自意識なんてものは矮小であると気がつかされるものである。


やはり人生とは大きな旅のようなものなのだろう。一時、どこかの宿に逗留したとしても、旅人は次の場所を求めて歩み去ってしまう。刹那の中に何か理由を求めることがあっても、それは大きな流れを変えるほどの流れにはならない。

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