僕がブログ論を語る時、それはネタ切れ発生時と決まっている。またしてもネタ切れだよ。毎日更新を続けるためにはストックを作っていると楽かもしれないけど、文章をまとめ書きするなんて面倒だし、機械的に毎日更新するのはなんか読者に失礼な感じがする。ブログを書くからには、毎日決まった時間に決まった文章量である程度、内面を書き出した文章を書かないといけない気がした。
だけどね、こんなこだわりは多数の読者を持つブログになるためには無駄な事だというのも分かっている。ブログで書く文章の自意識の持ち方は難しい所でね、ローカルで書く日記と違って他人の目を気にしないといけない。どうせブログを書くなら多くの人に読まれたいという欲望はどうしても生まれるものだ。これは個人であってもメディアの書き手としての宿命みたいなものかもしれないね。
文章の書き手は、自分の自意識を満足させるだけの技量と内容を文章に込めるのと共に、多くの読者を引きつける文章を書かなければならない。ブログでいうならば、自分が納得する内容のエントリーを上げ続けるのも必要だけど、営業もして読者を集めなければ、いつまでも独り言みたいなブログを続ける羽目になる。表現の考え方については「ブラックジャックによろしく」で記者が心情を吐露する次のような言葉があった。
表現とは、誰かに何かを伝えるためにあります。
つまり、どんなに伝えたい事があっても誰も読まない記事は表現ではありません
ですがどんなに多くの人に読まれても、そこに伝えたい事が無ければ表現ではありません
ブラックジャックによろしく 13巻 38ページ
どんなに筆者が心を込めた文章であっても、読者が居なければその心情は伝わらない。文章を通じたコミュニケーションというのは、書き手と読み手が居て、成り立つものなのだ。ブログも含む不特定多数を相手にするメディアは、多くの人が読んでくれる。しかし、なんのポリシーも信念も無い文章を多くの人がシェアしてバズっているということもあるもんだ。
まとめブログなんぞは、ただ扇情的なタイトルをつけて、コメントを集めただけで内容が殆どないことも多い。漠然と面白そうな話題を集めただけで、筆者の伝えたいことがない。これは表現じゃない。プロブロガーと呼ばれる連中も内容が薄い文章を書く。あれは広告目的だということもあるけど、そもそも語りたい信念が薄っぺらい自己啓発で構成されているということが強いんじゃないだろうか? 拡散力があるけど人の心に訴求する表現ではない。お役立ち情報ではあっても魂を揺さぶる記事ではない。
僕はどうせならば人に伝わる文章を書いてみたい。伝えたい事は色々とある。このブログを毎日更新しているのは基本的には文章の練習である。小説なども書くので毎日、誰かに向けて文章を書くという経験が後々役に立つのではないかという思いから毎日、文章を書いている。
ただ、僕も気をつけなければならないと思うのが、伝えたいことが無いのに文章を綴ろうとしてるという疑いである。ネタ切れということは語りたいことが特に無いと言う事だ。そんなときまで無駄に文章を書き散らすことは薄っぺらい文章を書く癖が付いてしまうのではないかと考えてしまう。
直木賞作家の西加奈子は、毎日小説を書いていたけど壁にぶつかった。
大阪に住んでいた頃からひそかに小説を書いては一人で悦に入っていたが、人に読ませたところ「技術はあるけど感情が無い」と言われ、「書きたくなるまで感情を溜めないとだめだ」と勧められるまま半年ほど断筆、その後に閃いたイメージから猛烈な勢いで一気に書き上げたのが『あおい』である。この作品に西はいたく愛着が湧き、「活字にせな」と思い立ち、いくつも仕事を掛け持ちして上京資金を貯め、「全部捨てんとアカン」とそれまでの大阪生活の全てを投げうって身一つで東京に移り住んだ。『あおい』は程なくして『世界の中心で、愛をさけぶ』の編集者の目にとまって出版にこぎつけ、西は文壇デビューを果たした。
文章を書き出すということは心の内圧を下げる行為である。これはイライラなどを抑えるなどのメンタルヘルス的には良いかもしれないけど、毎日書いていると書きたいものに対する欲求が薄れていってしまう。文章の濃さが薄くなっていってしまうんですね。毎日書いていて、なんか上滑りの文章しか書けなくなったなと思ったならしばらく筆を置くのも一つの手です。
僕も毎日更新しているけど、休んだほうがいいのかなという悩みもある。なんか、文章が薄くなっているんですよね。連続更新記録が続いているので止められない感じ。ただ、このまま続けてみるとどんな感じの文体になるのかなという興味もある。熟練度は上がるから分かりやすい文章にはなるんですよね。だけど、書きたいことが書けてない感じがいつも続く。ブログの毎日更新もメリットばかりではないのだ。
結論としては、ブログは毎日更新だけが全てじゃないという事だ。自戒、自戒。