創作におけるエゴと承認欲求のバランスを考える。
今日は朝はちょっと友達とモーニングをしたいということで、宜野湾の「Goofy Groovy Coffee」というカフェに行ってきた。
よく分からないけど南米で食べられている? らしい、鶏肉をトルティーヤで挟まれてる食べ物を食べた。コーヒーはまぁまぁだったけど、食事はすごく美味しいと思った。
午後からはいつものカフェに行って、玲と真輝の小説についてのキャラクターシートを作る作業などをやってきた。今回はベーシックな小説執筆のやり方で書いていこうと思い、ちゃんと場面ごとの箱書きをしたりとか綿密にキャラクターシートを書いていくことなどやろうと思っている。
小説についてはどれぐらいで完成するかは分からぬが、下手すりゃ年内ではおわんないだろうなーと思う。ちょっと玲と真輝の物語については、舞台の設定がものすごく複雑で巨大なものになっており、これをガチで作品として仕上げることができたなら、「そこらへんの新人賞とかぶっちぎりじゃね?」などと思うのだが、まぁ、そういうのは物書きをする人が作品を作ってる時はみんな思うものだし、僕は小説執筆については過大な願望は持たないことにしてる。
とりあえず今現在は、毎日ちょっとずつでも設定資料をコツコツと書き溜めることなどをやっていこうと思う。現時点でも登場人物が10人になってるし、それぞれのキャラクターの掘り下げをちゃんと書いていくと10万字は超えちゃうかもしれないな。シリーズ全体で連なる巨大な陰謀が動き始めたという感じであり、作者の僕自身でも壮大な物語になるなと感じてるところである。
しかしまー、物書き趣味の着地点をどうするべきか? というのはよく分からない。僕は毎日かかり切りで、下手をしたら年単位で時間を食うような趣味を単なる遊びでやろうとしてるのであり、いくらなんでも時間の使い方としては贅沢過ぎやしないかとも思うんである。
僕が作家志望で、賞を取ったりする目標があるというのなら、見返りがちゃんとある行動なのでまぁ理解できる。しかし、僕がやってるのは遊びである。それですごい大作を仕上げたとしても、せいぜいネットで公開してちょいちょいレスポンスをもらう程度であり、労働力に対して見返りがなさ過ぎて意味不明ではあるよなーと思う。
見返りがなきゃ創作をやったらダメなのか? と問われると、なんとも答えにくいところである。いや、ちょっと今日は友人とそんな話になったのだけど、現実問題、全ての人が世界一長い小説を書いたヘンリー・ダーガーみたいな行動は取れないだろう。それにヘンリー・ダーガーの作品というのも客観的に見ると、引きこもりの変人の家を死後に片付けようとしたら膨大な小説が見つかったという感じで、あまりにも報われない人生である。
とりあえず僕はこんな風にしてブログを書いて、それなりに読まれていたりもして、ひとまず作品を公開する場所というのは自分でも作ることができてるのである。僕はまー、必要以上の承認欲求については「つまらん」とは思うけど、全く承認欲求がない状態で本当に自分の好き勝手に「ぼくがかんがえたさいきょうのせってい」で書かれた物語というのは、控えめに言っても読むに耐えない最低の出来栄えになるのは確定である。
そこんところの「作者のエゴと承認欲求」のブレンド具合というのは、創作者全ての匙加減なのだけど、これを失敗してしまうと作品を書くのが嫌になり筆を折る原因になったりとか、全く読まれるアテのない作品に膨大な時間を費やす原因になりがちである。どれぐらいの分量でエゴと承認欲求を混ぜるかは、それぞれの体感で決めるしかないけど、「自分が創作活動を継続的に続けていくのが苦しくないぐらい」の分量でそれぞれの要素を混ぜるのがミソである。
僕の創作活動の最終目的としては「自分が読み返してみて楽しい作品を書いて、たまたま読んだ人から感想が貰えれば幸せ」ぐらいにしており、pixivやカクヨムなどの創作プラットフォームでたまに読んだ人から感想がもらえりゃまぁいいかなー、ぐらいの低分量の承認欲求で駆動できるのである。これがどこかの文芸賞で受賞するとか、ネットで大バズ起こしてアニメ化みたいなハードルで創作をしてりゃ、今頃確実に書くのが嫌になっていたはずであり創作活動するのが苦しくなるはずである。
僕みたいな低分量の承認欲求で創作活動するのができるのが最高に素晴らしいのか? と問われると、それは人それぞれとしか言えないよ。創作SNSでバズを取るために映える絵柄とか今風の画風とかを徹底的に研究して、それですごい猛烈な勢いで成長してプロ活動をしたりとか大成功できる人もいるもんな。承認欲求はうまく使えば自分を成長させるための餌にしてドライブすることもできる。だからまぁ、そこんところは人それぞれなのである。