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シン・エヴァンゲリオンを見てきた。

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シン・エヴァンゲリオンを見てきた。

シン・エヴァンゲリオンを見てきた。自分語りをする。

(一応、ネタバレなしで書くつもりですけど、嫌な人は退避してください)











今日、シン・エヴァンゲリオンを見てきたんですよ。詳細な感想については、ネタバレを出さずに書くのが不可能だと判断して詳細は騒ぎの潮が引いた頃に書くことにする。しっかしまぁ、ありゃアレですね。90年代に青春を過ごしてきた氷河期世代のヲタクはもれなく見るべきですね。庵野秀明がターゲットにしてきたのは、間違いなくその頃、オウム事件やら阪神大震災やらで世紀末の暗い世相で拗らせた思春期を過ごした若者です。そういう捻くれた若者たちも、年を食って結婚したりだとか家族をもったりだとかして親世代が何考えてたのか分かってきた頃合いなんだろうけど、子供が成熟して大人になって人生を引き受けることはどういう事なのか?という事に庵野秀明氏なりに回答してみたという事なんでしょ。


駄目だ駄目だ、詳細書かないと書いたはずだけど気を抜くと書いてしまいそうだ。今日は自分の事を書く。


なんか、僕が認識している自分というのはわりあいヲタク的なコンテンツを好んで摂取する人種だったはずなんですよ。最近、そういうアニメとか漫画とかのコンテンツを摂取することが出来てねーなという事が気がついた。なんかさ、歳を無駄に食って、感性が枯れてジジイになってきてるよね。


ほんとさ、これは嫁さんと話していて気がついたんだけど、最近、そういうヲタク的なコンテンツを身体が全く欲していないんですよね。もうちょっとガキだったころはアニマックスとか契約してマクロスフロンティアとかけいおん!とか他にも色んなアニメを垂れ流しにしてたんだけど、最近はアニメを一話みるにしても気合を入れないと集中力が続かない。ましてや流行りのアニメをワンクールを完走するのなんてしばらくやってないかもしれん。


若い頃は、かわぐちかいじの漫画など何の色気も感じないおっさんしか出てないオヤジ臭い作品だと思ってたんだけど、最近、「ジパング」のアニメを見てたら意外と面白くて完走しちゃったんですよね。その後にもヒラコーの「ドリフターズ」見てたりとか、どうも、求めているのが萌えやらそういう欲求に応えるコンテンツというよりは、軍事やら歴史やら雑学的な知識を同時に効率的に吸収できるような作品を面白いと感じるようになってるみたいなんですよ。


面白いコンテンツというのは、意味とか知識とか含まれなくてもそのキャラクターを愛でたりとかシチュエーションでキュンキュンきたりしながら楽しめるものだと分かってるはずなんだけど、そういう身体で分かる感覚が分からなくなっている。概念を使って言語化出来て、頭で理解できるコンテンツを読むようになってるんだよね。


なんというか、自分で書いていても頭が固いジジイの老害みてーな発言だと思うよ。シン・エヴァンゲリオンを観ても直感的に分かる感受性が消えて、理詰めで考えて感受性を理解しようとしている。大人になるって悲しいね、と口先だけでほざく事はできるかもしれないけど、僕は創作もやる人間なので色んな所に影響が出ているだろうから、こういう自分の実態を把握して、どういう風に舵取りをするのかとかは方針を考えておかんと勘違いしたままになる。

「年を食う」ということを実経験で理解しつつある。


元々自分は理屈で考えるのは癖みたいなものだったけど、実生活でまで理性で方向性を決めようとしたらこういう悪影響が出始めてるのか?と考えなくもない。最近はタスクシュートやら振り返りの週報やらで生活習慣までもスケジュールで管理しようとしているけど、僕はこれは別に苦痛じゃない。むしろ、やるべきことを事前に見積もりを出して、きちんと定量的に計測を行いながらPDCAを回していく生活というのはシステム屋的な合理的な考え方に見合ってる。


一方で、物語的なコンテンツの世界というのは怪力乱神で語りまくりというか、理性で測りようのない非言語的な事柄を、媒体を使って描き出す、描写する。人間対人間の交流の中で発生する場の力学を、情景やら心理描写を使って表現する。そういう、言語で概念化するのが難しい事柄を、詳細に描写ことで読み手に伝える。物語での表現するものというのは、理論で語り尽くされた陳腐なステレオタイプではなくて、力動的なコミュニケーションの場で生まれる言葉にできない何かを生々しく臓物をぶちまける。物語の領分というのはそういう事だと理解しています。


僕は上述したことを理屈で理解している。言葉が表現できないことを表現することが物語、ということを言葉で理解しているというのは陳腐である。こういうものは身体で分かるものだ。例えば、屋久島の森の中を汗だくになって歩いていって大きな杉を下から見上げる神々しさなど、そういった内的な経験は、言葉をいくら尽くしても客観的に概念を言語化出来ない。そういうものはひたすら内心の則に従って感じたことを自分の言葉で書き綴るしかないのだ。

まとめ


シン・エヴァンゲリオンから脱線している様に見えるかも知れないけど、実はこれは僕がシン・エヴァンゲリオンを見て感じた感想だ。凄い映像をみても、その背後にある監督の思惑を想像してしまって、どういう風にこれを物語で使うのか?そう考えてしまう。見る目ばかりが肥えて、手が動かない。自分の創作者としての限界を作ってしまってるな。作品の中で「土の匂い」と言ってたけど、庵野秀明さんが20年以上の彷徨でたどり着いた答えはそこかーと思った。結局、世界を理詰めで自分だけ先に進もうとしても無理があって、最後は身体的なものとかそれに結びついた血縁とか地縁とかに戻ってきてしまう。人間の本質ってなんだろうと考えていたよ。

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