超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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僕は自分のことを偽善者だと思ってますけどね。

僕は自分のことを偽善者だと思ってますけどね。


さて、相変わらず沖縄は雨模様であり、僕は微妙な偏頭痛でイライラしている。ちょっと頭痛ーるを確認してみるのだけど、やっぱり注意などのアラートが出ており頭痛持ちには辛い気圧であるようだ。こういう時はあんまりややこしい事を考えない方が良い。あまり小難しい事を考えているとそれがストレス源になってしまってメンタルを拗らせることがある。こういう日はお気楽な娯楽作品でも眺めながらぼちぼちと過ごすのが一番なのである。


などと書きつつ、今日書くブログの内容はなんとなく重苦しそうだ。午前中にScrapboxに長文を書きつつ遊んでいたのだけど、どうにも僕は偽善者であるなと思い至ったのである。


僕のブログの古参の読者であればご存知であろうが、以前の僕のブログの内容というのは露悪趣味が酷すぎる内容の記事を書くことがあった。わざわざ直視しなくても良いような問題ばかりを取り上げていたりとか、炎上に踏み込んで行って誰かを批判したりなどという事をやっていた。しかしまぁ、ブログを長く続けているうちに、いつしかそのような露悪趣味な記事を書くことが少なくなり、比較的善良な事をコンスタントに書くようになっている。


自分自身の性格が善良になったのではないけども、ネットのいろんな領域を確認していると、露悪趣味的なことが時代遅れであり、あんまりそういう事を書いている人がカッコよくない事に気がつかされたのである。元々、僕は2chのような匿名掲示板の方からネットライフを開始させているタイプなもんだから、露悪趣味な文章を書くのが習い性になってる部分があったけども、ブログを長年書き続けているうちにそういう性質が抜けてしまった。


僕が今、主にネットを観測している領域というのははてなブログはてなブックマーク、そしてtwitterなどのSNSである。はてなブログの世界というのは、僕にとってはご近所さんと雑談でもしながら井戸端会議でもやってるような感覚でコミュニケーションしている。しかし、twitterやはてぶの世界というのは、偽善と露悪と冷笑が入り混じった混沌とした世界である。あそこに覚悟もなく踏み入ると、嫌な情報を大量に目の当たりにして、世の中を見る目が拗ねてしまいあっという間に人間不信に陥ってしまう。


まぁ、僕はハテブとtwitterに関してはベータ版だった16年前ぐらいからずっと使い続けており、そういう匿名掲示板的な荒れたスレを淡々と眺めるネトヲチは趣味になっている。だからこそ、このブログの初期段階で書いている記事も拗ねた内容ばかりを書いていたのであるが、自分自身が情報発信を行ってるうちにそういう露悪的なことを書いても得られるものは何もないということに気がつかされたのである。


僕はブログ以外ではあんまり公にしないようにしているけど統合失調症を患っている。なので、同じ同病を患ってる人のブログを好んで読んだりとか交流したりするのだけど、やはりその中には病気でやけになっていて自暴自棄な文章を書き連ねていたりする人もいるのである。


僕も相当病気が酷い時期というのは、社会から断絶されて生きてるのか死んでるのか分からない引きこもりのような生活をしていたのだけど、医者とか家族とか友人とかいろんな人に助けられて社会復帰を成し遂げることができた。人間の絆であるとかそういうクサいことはわざわざ大っぴらに語れるような厚顔無恥な人間ではないものの、人間は生きていれば周りの人間や社会に救われることもあるし、自分自身がそういう社会のつながりによって生かされているのだということに否が応でも気がつかされた。


実際、僕は希死念慮のせいで2〜3度は自殺未遂で救急で担ぎ込まれて緊急入院してたりとか、精神病院の閉鎖病棟に閉じ込められるような状況から立ち直った。なんでまぁ、どうせこうやって死の淵からなんとか立ち直ったのだから、自分自身の経験を活かして、おんなじような苦しみを持ってる人をなんとか励ましてやることはできないものか?と柄でもなく考えるようになってるのである。僕は偽善者であるものの、人を救う意志が全くない露悪よりは、少なくとも誰かを助ける意志のある偽善の方が幾分マシだと思ってこのスタンスをとっている。


たとえ偽善であったとしても、それで本当に人を救うことがあれば自分の意思で世界に働きかけることができると実感することができる。世を拗ねて、世間に背を向けてるよりは、この世界には生きてる価値があると信じてる方が自分の日々の生活が過ごしやすい。僕は自分のエゴを守るために偽善というスタイルを取ってるのである。


僕が知ってる自分の性格というのは、理想主義のエゴイストである。自分の気分を良くするために、ひとまず理想を優先させてみるのである。その理想が届かなければやれやれと言って諦める。その理想で物事の事態が多少なりとも動くのであれば自己満足することができる。僕にとっては、自分の善性というのを確信して人に施しでもやるように救おうと考えるのは傲慢であるという思いがある。自分の力に限界があるというのは知ってるので、自分が手の届く範囲の人々には幸せになってほしいなと願う偽善が、僕のスタイルである。

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