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「ソクラテスの弁明・クリトン」を読んでみた。

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ソクラテスの弁明・クリトン」を読んでみた。

哲学の原著を読んでみたいと思ってた。


なんかブログのネタないかなーと思って過去記事を読み返していたのだけど、2年前の6月4日には「考える教室 大人のための哲学入門」の感想文を書いていたのだね。


www.ituki-yu2.net


この本、良かったです。哲学の解説書ばかりではなくて、実際に原著を読んで自分の頭で考えてみようみたいなことをおすすめした本でした。


この本を読んでみたから、僕は「ソクラテスの弁明・クリトン」を実際に読んでみようと思い立った。



で、実際に読んでみての感想なんだけど、下記みたいな感じでした。



どうも、たしかにこの本は読みやすいんだけど、別にソクラテスはすごくも偉くもないなと感じましたね。なんというか、そこらへんの街の人を呼び止めては議論をふっかけて、無知を自覚させるまで問い詰めることをやって、それで色んな人に恨まれて有力者に裁判を起こされて死刑を宣告される。それで古くからの友人が獄舎から逃げ出すように勧めに来るけど、信念に殉じて死刑を受け入れる。みたいな話。


現代の基準で言えば、ソクラテスはただマウンティングをかましまくる迷惑なおっさん。それで死刑にするまで追い詰める必要は無いだろうけど、現代でもこういう人がいれば疎まれることは分かる。古代ギリシャの時代背景を理解した上で、何かの変換エンジンがなければこの本を凄いと思いながら読めはしないのだろう。


原著を読んだだけではソクラテスの凄さは伝わらない。解説を何冊か読んでみて、それで意味が理解できてくるような本なのだろう。確か、独学大全でも書かれていたけど、古典というのは素晴らしい名著を指す言葉ではない。古典というのは様々な読み方ができるので、色んな人から引用されて解説本などがたくさん出ているのが古典と呼ばれる本である。「ソクラテスの弁明」も解説本はたくさんあるはずなので、それらを読んだあとに再び原著に当たってみると、感心する所もでてくるのかもしれない。

古典を読んでみて自分の感覚で問い直すのも重要。


ソクラテスに関しては、自分で書き残した著作は一つも残っておらず、その弟子のプラトンが語り継いだ逸話により伝説が残っている人なのだ。「ソクラテスの弁明」を読んでいても、なんか徳について色々と議論しているなーとは思った。理屈が小難しい所は読み飛ばしてみたけど、こういう所で考えてみるのが、哲学をするということだろう。


まぁ、なんとなく、文学青年たちがこういうソクラテスみたいな人に自分を重ねちゃう感覚というのも分からなくはない。漱石とかを読んでいても、小理屈をこね回して世間に斜に構えていろいろと弁じているキャラクターというのはいる。漱石に限らず、こういうひねくれた考えを持ってる人たちというのは社会に一定数いるのだろう。


こういう青年期のこじらせ問題を中心に論じたのが中島敦の「山月記」なんだろうな。色々と悩んだ末でどういう風な解釈をして世間を渡っていくのか選択する。人格が成熟していくということはそういうことだと思うのだけど、「山月記」では結論として李徴は世の中に背を向けて虎になって藪の中に消えていく。


漱石もなんか世の中からはぐれた人たちの話をいっぱい書いている。漱石の場合はそういうエゴと世の中の衝突を中心にして論じていた文学者だという印象がある。漱石の本も積ん読になってるからいずれ読まんとならんだろうな。

自分自身はどうなのか?という話。


僕も元々文学青年であった。僕も世をすねてひねくれている時代が長かったけども、今は小綺麗にまとまっちゃって迎合しようとしてるような感じだよね。


漱石の「吾輩は猫である」を読んでいても、登場人物の中で一番共感したのは実業家の鈴木くんであった。「吾輩は猫である」の感想はこちらに書いてある。


www.ituki-yu2.net


理屈をこねるのであれば、それで社会を理解した上で有益に動かそうと考えてしまうのが自分の考え方である。理屈のために自分を窮地に追い込んで、その結果、刑死を選んでしまうソクラテスの生き方はそのために理解できない。「ソクラテスの弁明」を読んでみて、ソクラテスと自分の生き方を相対化してみて感じた考えはこんな感じだったのである。

まとめ


自分はなにかの信念のために死のうだとかそういう考え方はできないよね。思想は世の中を解釈するための道具であると理解している。思想を上手く使って世の中の見え方を面白おかしいものに変えて、人生を楽しく生きていこうと考えるのが自分の哲学である。


おそらく、「考える教室」で言っていた自分で哲学することってのはこういうことなんだろうなーと思う。「考える教室」についてももう一度読み返してみて、その上で「ソクラテスの弁明」も読み返してみるかな。

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