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「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」(小林昌平著)を読んだ。

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「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」(小林昌平著)を読んだ。


GW最終日は嫁さんと二人でブログ書いたり本を読んだりしてた。明日から会社に出勤なんですね。弊社が何を考えているのかはしらないけど、なんかリモートワークは終わりっぽいです。緊急事態宣言は延長されているので5月末まではコロナ騒ぎは終わりそうに無いんですけど、それでも上層部は会社に人を集めたいみたいです。おそらく、数日ぐらいは会社に出勤しないといけないかもしれないけど、しばらくしたらまた在宅勤務じゃないかな?って気もする。まぁ、沖縄はGWに入る前ぐらいから1日の感染者が0人の日々が続いているので、また感染者が続出するのでなければ通常勤務かもしれないけど。


今日はkindle unlimitedで面白そうな本を見つけたのでkindleの端末に落として読書をしていた。思ったより良い本だったのでエントリーに起こしておこう。今回読んだのは、「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」(小林昌平著)という本だ。


この本は、色んな現代人の悩みに対して哲学者の考え方によって解決策を提示するという風な本だ。たとえば「将来が不安」とか「お金がほしい」とか「死ぬのが怖い」などその様な悩みに対して、ニーチェだったりサルトルとかの哲学者、ブッダの様な宗教家、アドラーフロイトの様な心理学者の色んな説を引用してきて答えを導き出すのである。


僕はわりかし哲学的な読み物が好きで色んな哲学の読み物を読んできている。例えばこんなところであろう。


www.ituki-yu2.net


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この「その悩み、哲学者~」とアプローチの面で似ている本は、マイケル・サンデル氏の「これからの『正義』の話をしよう」ですかね。


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哲学入門書などにありがちな、色んな哲学者の考え方だけを述べて終わりにするのではなく、哲学を実際の生活で運用するために実際に思想を「使う」為の本なのである。人生の中でぶつかる悩みに対して、どの思想家のどの考え方がプラグマティズムに「使えるのか?」で実際に問題解決のために思想を運用するのである。


哲学というのは多くの人の印象にあるように小難しくて理解しにくいという学問かもしれない。実際に哲学書を読んでその思想を読み解こうと思うと一生かかっても理解できないかもしれない。哲学書の使い方というのは、そういう難解な壁に立ち向かってみることで自分の頭で考え抜くために壁打ちで使ってみるというのが本来のやり方である。こういう事については「考える教室 大人のための哲学入門」(若松英輔著)で書かれていたな。


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だけど、時間が足りない現代人が、いちいち哲学書を紐解いてすべてを理解できるまで悩み続けるというのも現実的じゃないだろう。そのため、問題に応じて実際に解決するために哲学的なフレーバーを利用するというプラグマティズムなアプローチで哲学を使うという試みも実際的であろう。この「その悩み、哲学者が~」の作者がそこまで考えて書いているのかは分からないけど、そのアプローチの仕方はマイケル・サンデル氏の様な現代の哲学者のやり方に近いかな?と思った。


僕の気になったところの感想を述べて、この本のおすすめをまとめようかな? 僕が気になったのは「やりたいことがない。毎日が楽しくない」の章だった。この悩みに答えたのは禅僧の道元である。

来る日も来る日も同じ生活のくりかえし、「生きている」という実感を抱くこともなく、私はこのまま年老いてゆくのだろうか。
そんなふうに、変わりばえしない毎日にむなしさを抱く人は少なくないのではないでしょうか。

しかし、なんでもないその日常にこそ、人生の「悟り」を得る機会がひそんでいるのだ。日本曹洞宗の宗祖にして日本を代表する宗教哲学者・道元は、そういってます。
些事、雑事、凡事こそ、悟りに至る修行なのであると、

私たちがふだん、日常で行う行為のすべては何かのための手段です。事務作業一つをとってみても、このアポ取りはある打合せをセッティングするための、その打合せをセッティングするのはきょう一日を無事に終えるための、きょう一日を無事終えるのは上司に怒られないための、上司に怒られないのは査定でマイナスにならないための、査定でマイナスにならないようにするのは将来の生活への不安をなくすための、というように、すべてが目標への連鎖になっている。その連鎖に日々私達は追い立てられ、手段としての行為を際限なく重ねていくほかありません。
坐禅とはその連鎖を断ち切ることであり、それだけで完結した行為であって、他に目的を持たないのです。そして椎茸を干すような、他に目的をもたない作業は、坐禅と同じ効果をもつということができます。禅寺で料理や掃除などの作務が坐禅と同様に重視されるのはこのためです。作務がそれだけで充実した行為であるということ、そしてあの老いた典座のひたむきな姿が教えてくれるのは、「何かに役立てるという考えかたをやめる」ことであり、「今ここ、この私に徹する」ことなのです(頼住光子『道元に学ぶ生き方』より)。


日常を楽しく生きる方法というものは、そのやってる日常茶飯事すべてに対して手を抜かず「今ここ、この私に徹する」という事が重要なのである。何もかもに手を抜いて中途半端に生きているのなら、それはつまんないであろう。それを特に努力もせずにつまらないつまらないと嘆くのならば、それはつまらないだろうなーと思う。


僕がブログを毎日書く理由も人生を楽しむため、毎日を丁寧に生きるために日々を綴っているという所が大きい。毎日ちゃんと決まった時間にブログを綴り、今日一日で気になったことをエントリーとして発表する事は、坐禅とは違うけどそれだけで完結した行いである。こうやって何か集中できることを一つ持つだけで一日の充実感は違うであろう。


と、まぁ、こんな感じの人生の悩みに対する色んな実践的な考え方が色々と書かれているのである。僕的にはこの道元の他にも「自分を他人と比べて落ち込んでしまう」のミハイ・チクセントミハイや「重い病気にかかっている」のルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが面白かったですね。実際に生活の中で哲学のエッセンスを使った考え方を知りたいという人は読んでみてもいいかもしれません。


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