超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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「自己啓発の呪い」について考えた。

自己啓発の呪い」について考えた。


今日は上司が休みだからダラダラと仕事をしていた。ひとまず今週中にやるべきノルマは終わってるからこれでいいのだ。明日は午前中は半休をとって役所に行ってくる予定である。役所で処理しないといけない仕事が2つばかし溜まっており、そちらを片付けないとならない。


仕事は早々に片付いたので今日はChatGPT君とClaude3君に対して色々と小難しい哲学問題なんかを出して遊んでいた。うちの会社はひとまず生成AIの使用は認められているので、懲りずにこういうサボりをしてることがある。ここんところ生成AIで遊んでみてわかったことであるけど、プログラミングとか技術的なことはGPT-4の方が強力であるが、文章の理解とか納得度の高い回答の出力においてはClaude3の方が優位であるとわかってきた。でも、AIの環境でPythonを実行できたりとかインターネットに接続して回答を出力するなどの機能がついてるので、総合力ではまだChatGPTが優位である。


ちょっと生成AIとの議論で問題にしていたことで面白いなと思った論題なのだけど、「自己啓発の呪い」というのは現代社会の病理だよなーという風な話題で盛り上がった。自己啓発の呪いというのは、この世の中で幸せになるためにはひたすら努力をしたり誰かを出し抜いたりして勝負に勝たねばならず、幸せになるためには「何者」かにならないといけない。という風な呪いである。


ちょっとマスコミやインターネットなんかで世の中を眺めて貰えばわかると思うが、世間から認められてるのは才能があって、すごい努力をして運も良かった一握りの人間だけだ。例えば最近だと野球の大谷さんあたりは何やってもものすごい成功者として褒め称えられている。


そしてこの現代社会において幸せになる方法は、なんとか自分の本能を飼い慣らして、ひたすら知識を詰め込みまくり、いい大学に行って、何かしらの才能を見せつけるような成功をした人しか幸せになれないと、メディアや教育現場で教え込まれる。それだけではなく、何かしらの問題がある人というのは自助努力をやってこなかったから自己責任。成功者以外が注目されなくてもそれは努力が足りないからとして扱われる。


そこんところの、幸せになるためにはひたすら自己啓発をしまくって、周りの人を出し抜いて有利に立たなければならない。うまくいくための秘訣につきましてはBioからLINEの友達登録をお願いします、的な商売というのはネットをうろうろしてると佃煮にできるほど見つかる。そうじゃなくても、幸せになるためには周りの有象無象との勝負に勝たなければならないとされているのは、資本主義社会の宿痾なのかもしれない。


そういう現代社会の問題点についてはマイケル・サンデル教授の「実力も運のうち」の中で色々と述べられていたよなーと思う。



この社会の中では大きな格差が存在しており、その格差を解消するためにはどうしたらいいかと議論されている。エリート層は教育を充実させるべきだと論じているけど、結局、それらの教育を充実させたとしても別の格差ができるのであり、純粋な確率だけのくじ引きで大学受験の合格可否を決めたらどうかと論じてた本だったはず。


成功者は、親が資産を持ってたりとかたまたま運よく良い環境に巡り合わせたのだとしても、自分が成功したのは自分が「努力」をしたからだと理由を述べる。そして、周りの成功者になりたい人にも「努力」をしろと伝える。そして、成功してない人は「努力」が足りないからだと理由をつける。


アメリカ社会なんかの格差だとこれが顕著であり、西海岸のリベラルエリートの人たちなんかは自分たちが努力したから成功したと考えてるけど、ラストベルトにいるプアホワイトなんかはそういう上から押し付けるリベラルな価値観が鼻持ちならないので「この国を悪くしたのはこいつら」と指をさすトランプに投票して、あの国では大論争が起きている。


僕的な考えだと、幸せになるためには努力して夢を叶えなければならないと思い込むのがいかんのかなと思う。僕は夢というのは基本的には叶わないものなので冷たくみないとならないものと思ってる。


例えばオリンピックで金メダリストになりたいという夢を持っている人がいたとして、その夢を実現できる人は一度に一人だけである。メダリストになりたい人たちはとてつもない才能と努力を積み重ねて、それで運も良かった場合にのみ実現する。


夢というのはまずそのままでは叶わないものであるし、夢と現実の折り合いをつけることに失敗して絶望して引きこもりになったりするような人もいたりする。この世界で生きて、ある程度の年齢以上になった人たちはほとんど「夢は叶わないもの」であると知って現実と折り合いをつけている。それを適当に違う夢に乗り換えたり、忘れてしまったりしながら生きてるものである。


これは僕の贔屓の仏教の坊さんの南直哉氏が「「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本」でこのように述べている。

他の大人たちは君たちに夢や希望を持てというかもしれない。
もちろん、夢や希望通りに生きられた人間は、結構な人生を送れたのだから素晴らしい。拍手を送ろう。
しかし、私が今まで生きてきてわかったことがある。それは、人生では夢が叶わなかったり、希望通りに行かなかったりすることのほうがずっと多いということだ。
現実は、ほとんどの人は夢破れる。
でも、心配するな。夢が破れても人は生きていくことができる。その方がもっと大事なことだ

その証拠に周りを見てみるといい。
先生や君たちの親が、子供の頃の夢を叶えて、理想の人生を生きているか?畑仕事をしたり、公園のベンチに座ったりしているおじいちゃんやおばあちゃんに、今更夢や希望が必要だと思うか?

そんなものを叶えていなくてもみんな十分元気に生きてるだろう。
だから、夢や希望を持たなくても大丈夫。
なんの問題もないから安心していいのだ。



結局のところ「自己啓発の呪い」を解くためには、別に人と比較しなくても自分には価値があるということを普段の生活の中から実感することであるし、過度に競争を煽る世間から隠れて生きるのが重要なのかもしれない。僕はそう思う。

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