創作論を通じて、文章を書く才能などについて考える。
今日は、ネット界隈ふらふらと彷徨ってて才能がすごい人とかに出会って、あんなの書けないけど書けるようになりてえなぁみたいなことを考えているのですよ。まあこれはショーウインドウに飾られているトランペットを眺めている少年みたいなものですけど。なんかはてなの古参とかに多いんですけど、すごい内面まで深く降りていった文章を書く人たちがいるんですよ。あの人たちは書くことにとらわれすぎてナイーブ すぎて不安定だったりするんですけど、一つのエントリーに込められた考えの深さが半端なかったりする。
僕のブログのエントリーというのは、ひたすらに毎日思いついたことをセッションのように書いてあるだけであり上述したような古参の人たちが書いてるような思考の深みみたいなものはあんまり感じられない。客観的に見てどうこうみたいなものはアンケートでも取らないと分からないのですが、自分自身で読んでいて、大体いつも似たような思考パターンでフレームにはまったようないつもの展開をするなと思ってるんです。思考の深さがそこまで深くなくいつも決まったような展開でブレイクスルーが全くないなと思うんです。
とりあえずまぁ別に あの人達とつるんで見たいとは全然思わないんですけど、すごい文章は書いてみたいと思ってるんです。元々このブログを毎日更新している理由だって文章力の向上のためだったんだけど最近では毎日更新の辞め時を見失ってしまったからであり、なんかブログを更新することが趣味になってしまったというのもある。
文章を書く才能ってなんだろうなと思う。あの手の思考の深さを感じさせる文章を書く人たちというのはそもそも読んでいる本などが全く違っていたりなど、認知能力の差があるんじゃないかと思う。村上春樹あたりなんかは文章読本で小説を書くのに一番必要なのは才能であると断言しているので 、生来生まれ持った そういう才能もあるのだろう。
ちょっとまあ創作という面から才能について考察してみるとしよう。僕は小説も書くのだけど小説の書き方は大塚英志の「物語の体操」から学んだ。大塚英志は純文学の作家などにありがちな 、作者の運命的な創作へのこだわりみたいなものを徹底的に破壊するためにフレームワークに従った物語論を構築することで素人でも物語を作れるようにして、物語の神秘性を破壊しようとした。
まあ大塚英志の創作論の本を読んでみてもらいたいのだけど、カードを使ってお話づくりをしたりなどフレームワークで誰でも物語を作れるようになっている。物語の深みを与えるのはナラティブストーリー、つまりは民話や神話など口伝による物語のような構造主義を利用している。
僕は一時期大塚英志にはまっててこの構造主義による物語作りを徹底していたことがある。だけどまあやってみて気づいたこともある。
大塚英志が作り上げたフレームワークのように、小説を書くのをやりやすくする方法論はある。このフレームワークに従えば誰でもキャラクター小説のようなものは作ることができる。しかしながら、これで作り上げられた物語が本当に面白いかと言われると疑問である。
確かに物語を作ることはできるんであるけどその物語の厚みというのは作者の独自性 (オリジナリティ)に依存する。小奇麗な物語を作ることができても、そこに含まれる内容は作者のメンタリティに大きく左右される。実際に大塚英志のフレームワークを学んでみて思ったことは、構造というのは大事だけどそれで物語で神秘性は破壊できないんじゃないかと憶測する。
僕はまあ色々と小説も読んだりして今は平野啓一郎の「ある男」を読んでいるんだけど、あの小説で表現されているのは アイデンティティが交錯することで様々な人間関係が生まれ、そこで愛も生まれるみたいな話であり、実際に経験を積み重ねてみないとああいう話は書けないんじゃないかと思う。エンタメとか純文学とかの差はあるんだけど、良い小説というのは読者の人生経験を通じて感情移入させることが重要なのであり、物語を書く作者の人生経験が物を言う所はある。
結局まあ僕が思うところは物語を書くということは自分の人生経験を通じてよくできた例え話をでっちあげるようなことであり、そこに共通項などはあったりはするけど実際に経験したことにかなう材料はないのだ。ファンタジーなどでは想像力で補うのかもしれないけど、その中でもキャラクターが考えてることなど作者の経験を通じてでしか読者に特定の感情を引き起こす書き方はできないのであり、人生経験と想像力が創作者にとっての才能なんだろう。
だとするとまあ、僕の文章の勉強は日々のいろんな経験を通じてえられたものを毎日、このブログでエントリーにして綴ることだろう。十人十色と言いますかダテ食う虫も好き好きと言いますか、幸いにして僕のブログでも 書けば読んでくれる人がいるので、その人たちのレスポンスを頼りにしながら自分文章練習していこう。