超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する。

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嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する。


さーて、今日のブログは何書くかなー。なんか、twitterがザワザワしててまた面倒くさそうな事が始まってそうだなーみたいな雰囲気を感じた。別にあの黒川って検事の定年退職を伸ばすことに関しては「李下に冠を正さず」というか、わざわざコロナ騒ぎの時にこんなややこしい事してんだろうなー?みたいな事しか感じない。


www3.nhk.or.jp

検察官の定年延長を可能にする検察庁法の改正案について、ツイッター上では、9日夜から10日にかけて、俳優や演出家などの著名人による抗議の投稿が相次ぎ、同じハッシュタグをつけた投稿が10日午後の時点で380万件を超えるなど、広がりを見せています。


あの件はこちらによく情報がまとまってる。


note.com


僕の理解としてはこんな感じ。



話だけを聞いていると、今回の検察庁法改正案はプロセスとしては別に間違ったことはしていない。ただ、三権分立を守るためには国民はこういうのに権力が恣意的な法改正をしないか監視しないといけない。なので、国会では議論を尽くさないといけない。


ただ、その議論というのがtwitterでは出来ないな、と思った。なんかきゃりーぱみゅぱみゅさんが意見を出すと、批判が殺到してツイートを削除せざるを得なかったらしい。で、そのことについて批判に対する再批判とかが混じり合って混沌とした状況になりつつある。


議論ってただ自説を押し付け合うだけでは喧嘩になるだけであり、どこかで妥協点を見つけて着地させないといけない。なんか、ヴォルテールのこういう言葉もあったでしょ。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。実際はヴォルテールの言葉じゃないらしいけど。

有名な「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(または「―権利には賛成だ」。フランス語の翻訳文では「命をかけて」は同義の「飽くまで」)という言葉は、民主主義・自由主義のとりわけ表現の自由言論の自由の原則を端的に示した名文句として人々に記憶されているが、実はヴォルテールの著作や書簡にはみえず、S・G・タレンタイア(Stephen G. Tallentyre、本名Evelyn Beatrice Hall)の著作『ヴォルテールの友人』("The Friends of Voltaire"、1906年)中の「'I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it,' was his attitude now.」の部分翻訳である。これは当時物議を醸した書物『精神論』とその著者クロード=アドリアン・エルヴェシウスに対するヴォルテールの態度のタレンタイアによる要約であり、ヴォルテール自身の言葉とはされていない。 なお Norbert Guterman の『A Book of French Quotations』(1963)は、この Hall の言葉を、ヴォルテールの1770年2月6日、M. le Riche あての書簡にある、「私はあなたの書いたものは嫌いだが、私の命を与えてもあなたが書き続けられるようにしたい」(Monsieur l’abbé, je déteste ce que vous écrivez, mais je donnerai ma vie pour que vous puissiez continuer à écrire.)にもとづくものとしているが、実際の Riche あての書簡にはそのような文言は存在しない。


ja.wikipedia.org


で、現在のtwitterで行われているような議論のようなものは、お互いの反対意見を言ってるやつを黙らせるためにツッコみやすい反対意見を吊し上げて罵倒しあってるだけ。単なる社会の分断を生んでるだけでやらない方がマシだと思う。


最近、こういう事多すぎて攻撃性の高いユーザーはどんどんミュートブロックしている。僕は情報感度の高い人は好きだけど、得てしてそういう人は攻撃的だったりするから痛し痒しである。


なーんか、最近、こういうネットの議論とか社会の分断とかのコミュニケーションの問題は、僕の関心事で色々と情報を集めたりして考えている。

そう、気づいたときは既に手遅れだった。それも、決定的に。  
いまこの国のインターネットは、ワイドショー/ Twitterのタイムラインの潮目で善悪を判断する無党派層(愚民)と、 20世紀的なイデオロギーに回帰し、ときにヘイトスピーチフェイクニュースを拡散することで精神安定を図る左右の党派層(カルト)に二分されている。  
まず前者はインターネットを、まるでワイドショーのコメンテーターのように週に一度、目立ちすぎた人間や失敗した人間をあげつらい、集団で石を投げつけることで自分たちはまともな、マジョリティの側であると安心するための道具に使っている。  
対して後者は答えの見えない世界の複雑性から目を背け、世界を善悪で二分することで単純化し、不安から逃れようとしている。彼ら彼女らはときにヘイトスピーチフェイクニュースを拡散することを正義と信じて疑わず、そのことでその安定した世界観を強化している。  
そして今日の Twitterを中心に活動するインターネット言論人たちがこれらの卑しい読者たちを牽引している。  
彼らは週に一度週刊誌やテレビワイドショーが生贄を定めるたびに、どれだけその生贄に対し器用に石を投げつけることができるかを競う大喜利的なゲームに参加する。そしてタイムラインの潮目を読んで、もっとも歓心を買った人間が高い点数を獲得する。これはかつて「動員の革命」を唱えた彼らがもっとも敵視していたテレビワイドショー文化の劣化コピー以外の何ものでもない。口ではテレビのメジャー文化を旧態依然としたマスメディアによる全体主義と罵りながらも、その実インターネットをテレビワイドショーのようにしか使えない彼らに、僕は軽蔑以上のものを感じない。

Facebookの「いいね」だったりtwitterのファボやRTだったりするんだけど、複雑な社会問題に対して好きか嫌いかだけの感情的な判断だけで「いいね」を付けただけでなんか社会活動をできたような気分になってしまう。ネット上でたくさん観測できると思うんだけど、大量の情報をRTしたりとかいっちょガミで社会問題に対して過激な発言をしているようなアカウントが居たりするけど、ああいうのは大量の情報を消費しているだけで、思考力は全く使ってない。多くの人のアテンションを集めるためにはじっくり熟考した意見よりは、検索エンジン受けするように端的に短かったり、考える必要がない否定的な断定の方が受けやすい。


で、そういう風な、検索受けや大衆受けするようなファーストフードのようなお手軽な情報が氾濫した結果、大量の情報の処理するだけで精一杯になり思考停止して誰も考えないネット社会が出来上がったのである。こういうネット社会では誰しも見たい情報だけを集めてサプリメントのように摂取して、不完全で断片的な情報で自分の誤った認識だけを補強している。例えばトランプ大統領などはそのネットの流れを上手く利用しており、耳障りのいいフェイクニュースの拡散を上手く利用することで多くの熱狂的な支持者を集めて大統領選に勝利した。


www.ituki-yu2.net


僕はtwitterというプラットフォームではまともな議論ができると思ってないです。今回のコロナの情勢を見てても、災害時はデマ拡散装置の役割しか果たしておらず、こんな所でセンシティブな論題を話し合っても分断が起きるだけです。


じゃー、どうするべかー?みたいな話ですけど、僕はこれに対して回答みたいな意見は持って無くてですね、多分、ネット社会が過渡期なので成熟した社会のための倫理観などが育ってないんだろうなーみたいなぼんやりした意見しかないんです。こういう世論の流れとかが押したり引いたりしているうちに新たな成熟したプラットフォームが生まれるのでは?みたいな楽観論で見ています。


僕自身の考え方としてはこういう考えかたで行こうかなと思ってますけどね。



「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する。」ってのはスピノザの言葉ですけどね。僕はこの言葉を警句的に使ってますけど、ちゃんとした思想での意味は理解してないです。スピノザの「エチカ」は好きな哲学書で高校の頃とかよく読んでたんですけど、難しすぎて内容は理解できなかったですね。こういうのでちゃんと理解しながら読んでみたいです。


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