超メモ帳(Web式)@復活

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「遅いインターネット」(宇野常寛著)を読了した。

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「遅いインターネット」(宇野常寛著)を読了した。


ここしばらく、宇野常寛著の「遅いインターネット」を2度ほど繰り返しながら読んでたんですよ。一度読了した後にすぐ感想を書こうか?と思ったんだけど、どうもこれはもうちょっとちゃんと理解して感想を書かないと駄目な本かなー?って気がしたんですよ。どうも、自分が最近考えているtwitterやメディアのダメさをちゃんと分析して解説してある本の様な気がしたんです。


しかし、この本、ちゃんと全編通して全体像を理解するのが難しい。断片的な知識で重要そうなことが語られてるのが分かるんだけど、そのつながりを完璧に網羅して把握しようと思うと、末尾に書かれているブックリストの本を何冊か読みながらじゃないと理解できないと思う。グローバル民主主義とポピュリズムの関係とか、自民党55年体制がどうやって盤石になったかについてとか、すごい興味深いことが話題として語られてるんだけど、前置きとして語られてるだけでそれがメインテーマじゃない。なんというか、この本はえらく情報量が多すぎて目移りして混乱しちゃったのよ。なんで2回繰り返して読んでみたんだけど、まぁ、えらく頭の良い人が書いているんだなという事しか分からなかった。


なんでまぁ、僕はこの本を読んで気になった「遅いインターネット」というものについて掘り下げて感想文を書いておこう。本のタイトルにもなっている「遅いインターネット」は、実現できればよりよい社会を築ける作戦だと思う。そういうネットのこれからと行く末について、個人メディアの主としてぼややんと私見でも述べてまいろう。


最近のネット文化についてこういう文章があった。

そう、気づいたときは既に手遅れだった。それも、決定的に。  いまこの国のインターネットは、ワイドショー/ Twitterのタイムラインの潮目で善悪を判断する無党派層(愚民)と、 20世紀的なイデオロギーに回帰し、ときにヘイトスピーチフェイクニュースを拡散することで精神安定を図る左右の党派層(カルト)に二分されている。  まず前者はインターネットを、まるでワイドショーのコメンテーターのように週に一度、目立ちすぎた人間や失敗した人間をあげつらい、集団で石を投げつけることで自分たちはまともな、マジョリティの側であると安心するための道具に使っている。  対して後者は答えの見えない世界の複雑性から目を背け、世界を善悪で二分することで単純化し、不安から逃れようとしている。彼ら彼女らはときにヘイトスピーチフェイクニュースを拡散することを正義と信じて疑わず、そのことでその安定した世界観を強化している。  そして今日の Twitterを中心に活動するインターネット言論人たちがこれらの卑しい読者たちを牽引している。  彼らは週に一度週刊誌やテレビワイドショーが生贄を定めるたびに、どれだけその生贄に対し器用に石を投げつけることができるかを競う大喜利的なゲームに参加する。そしてタイムラインの潮目を読んで、もっとも歓心を買った人間が高い点数を獲得する。これはかつて「動員の革命」を唱えた彼らがもっとも敵視していたテレビワイドショー文化の劣化コピー以外の何ものでもない。口ではテレビのメジャー文化を旧態依然としたマスメディアによる全体主義と罵りながらも、その実インターネットをテレビワイドショーのようにしか使えない彼らに、僕は軽蔑以上のものを感じない。


僕の趣味はネットの情報の流れを観察して、その中から有益そうなものをピックアップして色々と考えたりするんだけど、ここで語られているネットの状況というのはまさしくそうだなと。twitterはてブなんかを観測していたら分かるんだけど、ネットのムーブメントの主な流れというのは適当な事で炎上している人をみんなであげつらって石をぶつける遊びだったり、社会問題に対して過激で一方的な断定をしてアテンションを集める遊びだったりする。


SNSで誰でも簡単に繋がれて情報を共有できるような社会になったのだけど、誰でも自由に発言できるようになることで深い民主主義が醸成される様な未来を、初期の頃のインターネット論壇では「集合知」みたいなことで想像していた。だが、現実は誰でも自由に発言できるように情報発信のコストは下がったのだけど、その結果が上述したような衆愚とカルトが跋扈する世紀末のような光景である。

SNSはオピニオンであふれている。あれはよい、あれはよくないというオピニオン、つまり意見を述べることは人間の承認欲求を満たす。自分が世界に関与しているという実感をもたらす。誰かにそれは間違っているとダメ出しすると優越感を得られる。 SNSはこの意見を述べることのコストを圧倒的に引き下げた。その結果、世界にはオピニオンがあふれかえった。それも「……ではない」という否定の言葉があふれた。「……である」ではなく。なぜならば前者のほうが後者よりも簡単だからだ。  この問題を代表する存在がフェイクニュースだ。誰もがオピニオンを述べたがる時代に、ファクトは軽視される。その結果オピニオンを述べるためのソースとして都合のよいファクトが捏造されるようになる。本来はファクトがあって、そこからオピニオンが導き出されるのだが、逆転が起きてしまう。しかもそれがインターネットの広告ビジネスによって利益を生み、止まらなくなっている。  この問題に対し「オピニオンよりもファクトを」という声が主にジャーナリズムから上がっている。半分は正しい、しかし半分は間違っている。もちろん、ファクトを重視してしっかりと報道し、フェイクニュースに対抗するのは重要だ。しかしそれだけではダメだ。  なぜそれだけではダメか。第一にフェイクニュースは欲望の問題だからだ。彼らは正しいか間違っているかをほんとうはあまり気にしていない。自分が述べたいオピニオンにとって都合のよいファクトを求めている。だからこの欲望にアクセスしない限り問題は解決しない。単に「そのファクトは間違っている」と言っても、彼らは気にしない。彼らは「信じたい」のだから。  そして第二にそもそも世界には絶対的な真実があり、それに気づくことで正しい解答が見つかる、という考え方は陰謀論に直結するからだ。オピニオンが独り歩きする時代に、ファクトを重視する姿勢を忘れてはならない。しかし世界は偶然性に満ちており、半分は無意識に駆動されているプレイヤーの振る舞いが複雑に絡み合うことで絶えず変化している。この当たり前の事実を、陰謀論は拒否してしまう。ファクトの正しい報道は大事だが、あるファクトが報道されれば正しいオピニオンも自動的に導き出されるという考え方は危険な思考停止だ。ひとつのファクトに対して複数のオピニオンがあり得ることを忘れてはいけない。  しかし SNSには「自分が知っているこのファクトが広まれば敵対する陣営の主張は論破できる」という前提のオピニオンが多すぎる。彼らは「情報( 0か 1か、 YESか NOか)」を扱うことはできるが「物語(情報の相互作用による変化)」は扱えない。しかし世界は情報ではなく物語(正確には書き換えられない物語ではなく書き換えられるゲーム)でしか記述できない。  しかし安易な発信を身につけてしまって、その快楽を手放したくなくなっている人は「自分が Googleで 5分検索して見つけてきたこの真実を知っていれば、あの意見は間違っていてこの意見は正しいと分かるはず」と思考してしまう。


Facebookの「いいね」だったりtwitterのファボやRTだったりするんだけど、複雑な社会問題に対して好きか嫌いかだけの感情的な判断だけで「いいね」を付けただけでなんか社会活動をできたような気分になってしまう。ネット上でたくさん観測できると思うんだけど、大量の情報をRTしたりとかいっちょガミで社会問題に対して過激な発言をしているようなアカウントが居たりするけど、ああいうのは大量の情報を消費しているだけで、思考力は全く使ってない。多くの人のアテンションを集めるためにはじっくり熟考した意見よりは、検索エンジン受けするように端的に短かったり、考える必要がない否定的な断定の方が受けやすい。


で、そういう風な、検索受けや大衆受けするようなファーストフードのようなお手軽な情報が氾濫した結果、大量の情報の処理するだけで精一杯になり思考停止して誰も考えないネット社会が出来上がったのである。こういうネット社会では誰しも見たい情報だけを集めてサプリメントのように摂取して、不完全で断片的な情報で自分の誤った認識だけを補強している。例えばトランプ大統領などはそのネットの流れを上手く利用しており、耳障りのいいフェイクニュースの拡散を上手く利用することで多くの熱狂的な支持者を集めて大統領選に勝利した。


別にフェイクニュースなどに騙されているユーザも「何か怪しいニュースだな」ぐらいの感覚は持ってるのだが、彼らはエビデンスとか信憑性がどうとかよりはフェイクニュースが自分が信じたいニュースだから信じているのである。その結果、外国からの移民により職が奪われて給料が下がってるので国境に壁を作れ、という実現不可能な過激な公約であってもトランプが支持されるのはこういう理由である。


別にこれはアメリカだけの問題でもなくて、日本でも韓国人と中国人を追い出せば日本が良くなると信じているヘイトスピーカーたちが溢れている。こういうポピュリズムの隆盛は全世界的な流れであり、EUでもブレグジットの実現などがある。インターネットを通じて世界中に広がったどこでも働けて壁のないGAFAなどのエリートたちのカリフォルニアンイデオロギー(グローバル民主主義)の反動として、今までの社会体制で既得利権を得ることができていた旧体制の人たちは人種や国家の象徴的な壁を作ることで自分の利益を守ろうとしている。


でー、こういう早すぎてフェイクニュースなども混ざり込む早いインターネットに対して、「スロージャーナリズム」という反対の流れも生み出されているのである。


toyokeizai.net


これからのインターネットで必要な考え方というのは、インスタントでお手軽な速報ニュースにごまかされて思考停止をするのではなくて、じっくりと考えながら社会問題を語り合うことができるような「遅いインターネット」の仕組みを考えることが必要なんじゃないか?と述べられてるんですね。ここで宇野さんが語ってたのはかつてのブログスフィア文化のような、それぞれがちゃんと考えて意見を述べて、そこに感情的な判断だけの「いいね」やPV数などで評価されず、議論をきっちりと積み上げるようなネットコミュニティが考えられていた。


僕的にはこの「遅いインターネット」って、かつてのはてな村みたいな長文テキストベースでのテキストサイト文化的だなーと感じた。最近のブログ界隈はみんな金金して如何にGoogleに受けるにはー?とか収益化のコツはー?みたいな話ばっかで終始してたけど、そういうのはみんなブログオワコンでYoutubeの方に行くみたいだし、逆にこれからのブログ文化はそういうのが居なくなって「遅いインターネット」的になってくんじゃないかなー?みたいな期待はしているんですけどね。


まぁ、宇野さんは実際にこういう遅いインターネットを作るためのネットサロンも開こうとているみたいです。気になるんで後で確認してみます。


note.com


遅いインターネット(NewsPicks Book)

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