超メモ帳(Web式)@復活

小説書いたり、絵を描いたり、プログラムやったりするブログ。統失プログラマ。


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ブログってのは好き勝手書く事を保証されているメディアだ。

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お、ブログ書く時間だ。昨日の続きなんだけど、仮想通貨関連の広告を排除するのに結構時間を取られている。広告レビューセンターには過去30日間で表示された広告が優先度順で表示されるんだけど、そこを過去まで漁って、仮想通貨関連の広告を見つけたら広告配信者を禁止リストに追加している。


昨日はざっくりと「仮想通貨」「ビットコイン」「ICO」で検索してhitした広告だけを削除していたのでまだまだ悪質な広告が表示されていた。今日は半日ぐらい広告の選定作業に費やしていたのでそこそこちゃんとした広告が表示されるようになっただろう。こういう作業に時間が掛かるあたりGoogleともいえどまだまだテクノロジーの進歩の余地を残しているな~と思う。かなりの労力を手作業でしないといけないんだ。継続的に広告の管理をしようと思うと結構な労力を毎日掛けないといけない。こういう事こそAIの仕事の気がするんだけどな。Googleさんには考えてほしいものだ。


実際のところ、そこまでブログの広告の選定に対して時間を掛けたくはないんだよね。だけど、ブログに表示される広告を選ぶ作業は個人メディアのような小規模なものともいえどもメディアを管理しているものの義務だと思う。Googleアドセンスの管理ツールには、広告レビューセンターみたいな表示させる広告を選ぶ機能が付いている。この意味は、広告配信者も掲載するメディアを選定せよということだろう。Googleアドセンスの資格を持っている人はちょっと広告レビューセンターを覗いて欲しいんだけど、Googleアドセンスは気付かない内に悪質な広告も表示しているぞ?


例えば、僕のブログでは頻繁に統合失調症関係の情報を発信してたりするんだけど、表示される広告には「電磁波犯罪」とか「盗聴器発見」みたいな広告が紛れ込んでいる。まぁ、統合失調症界隈を歩いている人しか分からんと思うが、病識が出来ていない当事者は妄想を電磁波のせいとか盗聴器のせいにしてGoogleを検索しているんだ。広告を出すためにGoogleアドワーズに登録するときには、検索キーワードを幾つか選ぶんだけど「統合失調症」のキーワードに対して「電磁波犯罪」とか「盗聴器」みたいな広告をだす企業もあるんだろう。僕はそういう悪質な企業を徹底して排除しないといけないと思っている。


ブロガーってのは小規模だけど情報発信をするメディアだ。だからこそ、自分のサイトに表示させる広告は選ぶようにして欲しい。Googleアドセンスは全自動で最適化された収入を保証する広告を出す。そこには常識や倫理を外れた広告も掲載されている。こういう広告を摘発して排除していくのは、情報発信者の責任だろう。資本主義ってのはバッサリと断言してしまうと多数決の社会システムなんだけど、そのシステムは多くの人が選択する決定ならば不具合はないだろうという考えのもとで行われている。だから、不味いシステムはみんなで告発していかないといけないんだ。


Googleアドセンスの「広告レビューセンター」はまだあんまり使われていない機能だと思われる。広告レビューセンターは自分のサイトに表示するにはふさわしくないと思われる広告を排除できる仕組みなんだ。Googelの事だから、これで排除される広告を統計して改善に役立てる様にするだろう。Googleアドセンスの資格者は広告レビューセンターを使って広告の選定を行って欲しい。こういう細かい行為が蓄積されて世の中のシステムが改善されていくのだ。世界中のみんなが協力してちょっとずつ世界が良くなっていく。僕はそういう性善説を信じてたりするんだ。


さて、今日の本題はなんにしよう。発信者のエゴについて語らせてもらおう。


情報発信者というのは、社会に対する公益性みたいなことを考えないといけないみたいな説もあるが、そんなのクソ喰らえだと言わせてもらおう。


まぁ、新聞社とかTV局みたいなマスメディアに関しては一種のインフラみたいな所があるので、世間の大多数に与える影響を考えないといけないだろう。しかし、ブログの様な小規模な個人メディアはそういうマスメディアの引き写しと考えても良いんだろうか? 僕は違うと思う。


ブログは徹底して発信者のエゴと偏見で情報を取捨選択して発信していけばいいと思う。これはブログが聴取者に選択されるメディアであるが故だ。


高度な情報化社会で歪んでいると思うのは、個人の意見が社会で拡大解釈されてしまうということだ。twitterなどでのちょっとした失言が大炎上を生む。それ故に情報発信する全ての人が過重な責任を負わないといけないように感じられる。


個人というのは、間違いを起こしても許される「愚行権」があると僕は信じている。どうしようもなく下らない事に人生を掛けている人であっても、社会は最低限度の生活を保証する義務があるというものだ。多分だけど、下らない愚行を起こして社会の底辺に居る人ががいてこそ、僕らの社会の基盤は保たれていると思うのだ。AIが最適化していって完全に無駄が省かれた社会は、多分、人間が生きるには過酷な世界だ。


人間というのは理想に向けて努力し続けるプロメテウスのような所があるが、それが人間が人間たる所以だと思うのだ。コンピューターが最適化した社会では人間は生きられないと思う。人間ってのは不完全なものを埋め続けようとするような生き物だ。

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