超メモ帳(Web式)@復活

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「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール著)を読んだ。

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「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール著)を読んだ。


今日は本を読み終わったから感想モードで語っておきますかね。結構、日常的に本は読むのだけど、記録を付けないと記憶に何も残らないので、こうやってブログに読書記録を綴るのは自分のためである。


最近は、「Think clearly」(ロルフ・ドベリ著)と「サーチ・インサイド・ユアセルフ」(チャディー・メン・タン著)を読み終わったのだけど、自己啓発本を読みすぎると人間として浅くなる気分がしてなんとなく記録を綴れないでいる。やっぱり僕は自己啓発本大好き人間なので、読書傾向が自己啓発系ばっかりになりがちなのですよね。意識的に小説とかを読むようにしないといけないと考えているんです。


それでもまぁ、読んだ本はきちんと記録をブログに綴っておかないと何を読んだのかすら忘れるので記録はちゃんとつけておこう。上記の2冊についても明日と明後日で感想を述べて参ろう。


今回読んだ本は「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール著)である。


この本を読んでみようと思ったのは、Dain著の「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」でスゴ本として取り扱われていたからである。「わたしが知らないスゴ本~」については過去のこのエントリーで感想を書いている。


www.ituki-yu2.net


この「読んでない本について堂々と~」は直接的なタイトルが付いているけど、別にそのまんまの内容で読んでない本について感想を述べる事だけが書かれている訳ではない。人間にとって本を読むという所作がどの様な行為であるか分析して、そこから文芸批評とはどういう風な行為なのかを批評家が鋭く論じた学術書に近い本である。


読書好きの人たちは今までの人生で色んな本を読んできたと思うが、今まで読んできた本は完璧に記憶しているだろうか? 僕が冒頭の方で書いたことでもあるんだけど、漫然と読書をして何もメモを残さずにいるとその本を読んだことすら忘れてしまう。これは大量に本を読めば読むほど相対的に一冊の本の印象は薄まって、どんな内容だったか忘れてしまう。


この事についてムージルの小説「特性のない男」の中の図書館司書のセリフを引用して次のような事が述べられている。

ムージルの司書の賢明さは、「全体の見通し」というその考えから来ている。私は彼が図書館について述べていることを教養一般に敷衍して考えてみたい。書物の中身に首を突っ込む者には教養を得る見込みはない。読書の意味すら疑問である。というのも、存在する本の数を考慮するなら、全体の見通しをとるか、それとも個々の本をとるかを選ばなければならないが、後者の場合は、いつまで経っても読書は終わらず、全体の掌握にはとうてい至らないからである。それはエネルギーの浪費でしかない。
ムージルの司書の賢明さは、まずは全体という概念の重視にあるが、それは、真の教養とは網羅性をめざすもので、断片的な知識の集積に還元されるものではないということを示唆していると考えられる。この全体の探求は、さらに別の側面ももっている。それは、個々の書物に新たなまなざしを投げかけ、その個別性を超えて、個々の書物が他の書物と取り結ぶ関係に関心を払う方向へとわれわれを導くのである。
真の読者が把握を試みるべきは、この書物どうしの関係である。ムージルの司書もこのことをよく理解していた。彼の関心は、多くの司書の場合と同様、書物にではなく、書物についての書物にあったからである。


読書をするものが、読書を通じて何を得たいのかをこの司書の話は教えてくれる。さまざまな事を知りたいものは一つ一つの書物に耽溺してしまうと、その個別性に囚われてしまい全体が見えなくなる。ここから言えることは「読書をしすぎる事で却って知識が断片化してしまい何も分からなくなる」。


ならばどの様に読書をすべきなのかは次のようにオスカー・ワイルドの読書に対する考え方を引用している。

作品と距離をとることは、したがって、ワイルドの読書と文学批評についての考察のライトモチーフである。彼のかの挑発的な言い回しはそこから来ている。「私は批評をしないといけない本は読まないことにしている。読んだら影響を受けてしまうからだ」挑発的だが、彼の著作の大部分を言い当てた表現にほかならない。書物というものは、それを読む批評家の思考をつき動かすこともあれば、彼のうちにあるもっとも独創的なものから彼を遠ざけることもある。ワイルドのパラドックスは悪書のみにかかわってるわけではない。良書の場合はなおさら有効である。批評をするために書物のなかに踏み入ることにともなうリスクは、もっとも私的なるものを失うことである。それは建前上は書物じたいのためであるが、そこで犠牲にされるのは批評家自身なのである。
読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある。良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断することなのである。良い読者は、書物の各々が自分自身の一部をかかえもっており、もし書物そのものに足を止めてしまわない賢明さを持ち合わせていれば、その自分自身に道を開いてくれるという事を知っているのだ。


これは特に何かを書くために本を読む人たちには顕著であって、資料に引っ張られてしまうと何も書けなくなってしまうことは多い。資料そのものに囚われてしまうと、創作者の創造性は失われてしまう。読書というのはそういう側面があって、書物を神聖化してしまうと却って知識は得られなくなってしまう。上記の引用の中でも語られていることだけど、「良い読者が実践することは、さまざまな書物を横断することなのである」。


この本は読書というのがどういう行為なのかという事を根本から問い直したい人が読むべき本である。多少、専門的で難しいではあるが、本当の知識が欲しい人は読むべきだろう。


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